こんにちは、漢文大好きマンです。本日は、毎年この時期センター試験がやって来て「なぜ古文漢文が入試で必要なのか」という論調を見かけるため、私の知っている範囲で意見を述べたいです。
背景
一般的に;
- 「なぜ国立大学の理系の入試で古典があるのか」
- 「センター試験の国語のうち古典が半分を占めているのはヤバい」
と言われています。特に東京大学の学部入試を見据えると、予備校の設定したセンター試験の目安として「900点中810点を取ると東大合格A判定ライン」と設定されています(あくまで目安, 筆者は740点しか取っていない)。しかしここで古典が苦手だと、900点中100点を古典が占めているため致命傷を負いかねない訳です。センター試験廃止の計画は進んでいますが、一発試験の今の形式が無くなり代替試験が出来るとのことなので、漢文との因縁が切れるとは限りません。
[筆者は
5年前『東洋経済オンライン』
にて「学力低下が懸念される日本の学生」として写真を撮られてしまったことがある(写真 下中央)]
今回の記事では、なぜ漢文が試験に出るのか、そしてどうすればもっと納得行く形になるのかを、私の好き勝手な嗜好と視点で述べたいです。ガチで政治的な提案というよりも、なるべく私がアニメを語っているのと同じように受け止めていただければと思います。
主張
私としては、漢文を社会に置いて、今の古文はそんなにいらないかなあと思っています。
その理由を、下に記して行きます。
入試が産んだ国語
国語というものを見ていきましょう。
そもそも、「日本語」と「国文学」は異なります。
日本の教育でも日本語と国文学は分類されています。日本の中高で「国語」を教える免許を取得する場合、「国語学・国文学・漢文学・書道」の4つから規定以上の単位を履修せねばなりません。[ここでは 日本語 = 国語学 のこと。] (教育職員免許法施行規則および文部科学省ウェブサイト)
↑これは ファクト/事実 です。
アメリカでの高校科目
例えばアメリカの例ですが、連邦の規定では国語 = 「文学+筆記」から選択して単位を揃えるようになっています。「文学」と「筆記」を分けている所が日本人には無い発想です。
↑これらも ファクト/事実 です。
「国語」とは一括りに言いますが、文学・言語・筆記・論理・古典 など、様々な要素を包括してしまっているのですよね。
そのため
そのため、「国語」というくくりは非常に大きく、内部で細分化されます。国立大学の入試・センター試験では、国語は「論理・文学・古典」に分類されていることをご存知の方が多いでしょう。(東京大学では国語のうちの現代文(「論理」)は、入学後の出来を左右するという説が教員の中で有ります。)
意見ですが「国語」という括りは、現代の入試という区画に鋳造するために発生した概念です。
明治〜戦前も国語のテキストは漢文調で書かれていた or 漢文の素読をしていたため、口語と古文を分けた教育は戦後の産物です。「受験戦争」という概念も高度経済成長で生まれたと聞き及んでいます。そう考えると、入試としての「国語」「古典」はそこまで歴史の無い枠組みです。それ故に、いま歪みが発生しているのではないかと感じます。
実際に、こちらから 戦前の入試問題 を調べましたが、東大には漢文がありませんでした。東北大にありましたが、英文和訳のような解釈問題でした。(23コマ目)
↑これは私の意見です。
漢文はなにであり、古文はなにであったか
多角的な要素を含んだ現代の産物「国語」のうち、「古典」(=「漢文」「古文」の和集合)は何であるのか詳細に見ていきましょう。
意外かもしれないですが、私の中では漢文が現代日本語の形成に資する所が大きく、それ故に今も科目として残っていると考えています。日本語としての重要度で謂えば、漢文 > 古文 という考えです。理由を見ていきます。
漢文は江戸時代に官学として捉えられ(儒学のうち朱子学の流派がですが)、明治の文豪も儒学のみならず諸子百家〜史記に精通しており、古く平安時代の和歌にも漢文由来のものがあるくらいです(例:百人一首「夜をこめて鳥の空音は謀るとも〜」清少納言)。
日本の元号も明治以降は『易経』『書経』を出典としています。(そもそも現在は元号法により「元号は、古典に出拠を有し、その字面は雅馴にして、その意義は深長なるべきこと。」という条件が付いているため、平成の次の元号も古典出典となります。)
今までの元号も、Wikipedia でクリックすれば、その出典が名だたる作品であることが見えます:
元号
故事成語も漢文由来のモノが殆どです。明治時代には、英語から新概念を輸入した際に、夏目漱石や福沢諭吉らの漢文通が「自由」「哲学」「統計」といった熟語を漢文から抜き出して日本語へ当てはめました。このように、現代日本語を形成する多くの要素で漢文の影を見ることが出来るでしょう。だから、入試問題で国語として漢文を扱うことに私は納得しています。
寧ろ「国学」と称して日本語で書かれた古文を学ぶ者達は俗物的で、吉宗公の時代には幕令で禁じられてしまう程です。それより昔の戦国時代、織田信長が上杉謙信に源氏物語絵巻の屏風を贈ったイタズラのエピソードがありますが、これはあくまでイタズラです。武将の旗には『孫子』に由来する「風林火山」が旗幟鮮明に掲げられても、『源氏物語』が掲げられることはありません。
[ Amazonでも売っている風林火山の幟 …当時は「私は漢文を読めます」というアピールのために掲げていたと言われている]
俗物的であるとはいえ、一定以上のステータスを持った人物が日本語の古文を読み継いで来たことは事実です。
↑これは事実を交えた意見です。
「文学」と「語学」
↓ここからは完全に意見・提案となります。
ここで強調したいのは、日本語を漢文が形成して来ましたが、漢文が「語学的」に大事だから日本語を形成したのではなく、「文学的」に大事だから日本語を形成したという点です。
例えば、なんJ語・淫夢語録・ジョジョ用語といったミームは現代のネットコンテクストで確固たるプレゼンスを占めていますが、日本語に溶け込んだこれらの用語は語学的に美しいからミームとして定着した訳ではありません。読む・視るコンテンツとして、なんJ・ジョジョ が普及しているから用語が通じるのです。我流の我儘な理論ですが、言語を形成するボキャブラリはコンテンツとして大事だから形成すると考えます。
{% oembed
https://twitter.com/takuyaonce/status/905221236891910144
%}
[なんJ語「ンゴ」 …語学的に滑らかではなく、ネットの文脈が言語に侵入した例]
聖徳太子をはじめ平安時代から明治の文豪まで、漢文を語学的に = 「漢文の読み方を極める」ために勉強してきた人はいない訳です。教養として、現代で言う『ジョジョ』のように『史記』を素読していたと喩えることが出来るでしょう。この我流理論を適応すると、漢文は「文学的」に大事だから日本語の主潮流だったと謂えます。読み継がれてきた古文も含めれば、古典とはこれを分類すれば「文学」や「歴史」に近く、決して「語学」という訳では無いと思います。
(註釈:語学というなら、じゃあ英語だって文学要素あるじゃないか!というツッコミを入れられる方がいるかと思いますが、英語という科目も元来「英文学」と「英語学」は異なるモノで、小説を読んだりする部分が「英文学」で、文法や発音が「英語学」にあたります。)
見えてくる入試に在る古典の問題点
それにも拘らず今の学校的・入試的な古典は、「語学」的な側面を追求しているから、学生が必要性を感じないという問題に面していると考えます。前提として入試の古典は、ほぼ書き下し・現代語訳です。
そのため、漢文・古文独特の原文読解に加えて、知識や教養としての問題を交えた設問に据えて出題するべきです。(どういった問題が相応しいかは、下記「おまけ:中身で提案したいこと」を御覧ください。)しかしこの場合、文学的な側面が強くなるため、センター試験が小説を設ける限りは国語として出題されますが、国立大の二次試験に登場させる派はあまりいなくなります。
極論
極論ですが、入試を考えるのであれば古典は「社会」に置くのがバランスが良いのではないでしょうか?既に高校では「古典」として「現代文」とは別に単位を履修するので、それが国語に当てはまるのか社会に当てはまるのかはそこまで大きな変革では無いと感じます。上でも述べましたが、国語という枠組み自体が現代の産物であり歪みを孕んでいるので、解消することに異様さはありません。
センター試験経験が有る方は、思考実験してみてください。古典がセンター試験で「社会」で選択でき、読解および知識問題を交えた教養問題として解けるのであれば、進んで選ぶ人も増えると思いますし、ありがたみすら覚えることでしょう。私にとっての「倫理」がそうであったように、多くの学生が現代社会・倫理政経に並んで、最も喜ぶ教養となるのです。
これは入試至上主義な修正案ですし、地理・歴史を学ぶ理系学生を減らすことに繋がります。ただ、意義の軽重は私には測れません。あまり文系科目に興味のない若者に、藩校の教育を施すのか、それともスコラ哲学を教えるのかは、議論に任せます。
よって結論
日本語の形成には漢文が馴染み深く、寧ろ古文よりも影響があります。だから漢文が入試に登場することは日本語を形成する要素として、妥当性は一定にあります。しかし、その漢文も「語学」として大事なのではなく、「文学」といった教養の側面から大事なのです。そのために問題の方向の改訂と、科目の挿げ替えを提案しました。
そもそも大学というのは、元来贅沢です。見田宗介先生が「学問は贅沢ですから」と語ったエピソードを聴いたことの有る方もいるのではないでしょうか?本来行かなくても良い場所ですので、大学が欲する人材の発掘方法として入試に何が出されようとも文句は言えません。ただ、医者や弁護士など、大学に通って資格を取らないと就けない職だけは何故古典を出題するのかという疑問は残ります。ここは日本の職業システムという、より大きな問題となりますので今回の記事では放置します。
[※「じゃあ漢文を学ぼう」と思い立って初手で
論語
を買うのはオススメしません(戒め)。詳細は下のおまけを御覧ください。 ]
おまけ:中身で提案したいこと
蛇足で、古文・漢文のこういった方向性を知って欲しいという紹介をします。
漢文はこうして欲しい
上でも述べましたが、哲学的・思想的な側面を扱って欲しいです。私は元来、孫子の実用性や、韓非子の主義に惹かれて漢文を読み始めました。
江戸時代、五代将軍綱吉は熱心に朱子学の講釈を開いて家臣に無理矢理聴かせていたと伝わっています。このように、漢文の思想解釈は他人に “語れる” ような側面を持ちます。また、江戸時代には幕府お抱えの、もしくは在野の学者が多数存在し、自分の流派を確立して書を著していました。朱子学の道の者であれば同じ四書五経のテクストを用いていても、解釈の違いが発生するのですよね。そこに漢文を思想・哲学として学ぶことの面白さがあるのですが、今学生がこの領域まで教えてもらうことはほぼ無いです。
皆さんは「漢文検定」をご存知でしょうか?「漢字検定」ではなく「漢文」検定です。漢字検定は「文科省認定」を推しているため、日本の教育システム寄りのメンバーで作っているのですが、漢文検定は日本の漢学の専門家たちで作られています。
実際の漢文検定の問題がここに 載っています。私はこういう問題、凄く好きです。「出典が良い」とか「このテクストは抑えるべきだ」とかは漢文が好きでない方はお分かりにならないと思いますが、 “入試での公平性を保つことを優先したマイナーテクストの読解” よりもずっと好きです。
漢文検定を受けるかはさておき、概論としてこういう書に目を通せば思想的な漢文を味わえるといったサンプルを下にオススメ書籍として挙げましたので御覧ください。
古文はこうして欲しい
古文は漢文と比べて謙遜無く知識が無くて意見になってしまうのですが、
古文で扱うテクストは、もっとバリエーションを持たせられると感じます。私は学校おろか試験問題としても『太平記』や『日本外史』を読んだことがありません。また、江戸三大文豪でも学校では芭蕉こそ教えますが、西鶴や近松を読むことはほぼ無いのではないでしょうか?
『太平記』は背景知識も必要で難解ですが、『日本外史』や『出世景清』は読みやすい上に一世を風靡した重要作品です。しかし書かれた時代が近い分、知識が無くとも読めてしまう点がテストとしての性能を欠いており、それ故に教育で扱うことが無いのは勿体無いというか本末転倒だと感じます。
おまけ:オススメ書籍
古典に興味が有る方へ、私からの布教タイムです!
・黒澤弘光 先生
『心にグッとくる日本の古典』
これを読むと「ああ、古文って本当はこういうことを味わうのね」というポイントが分かります。歴史やフィクション(ストーリーに重点を置いているアニメ・ゲーム)が好きな方は古文好きになるきっかけになると思います。
・角川ソフィア文庫
『ビギナーズ・クラシックス』
シリーズ
在宅で古典を学ぶならココから。このシリーズはいずれも分かりやすい注釈を必要最低限の原文に添えて説明してあり、古典文法全然分からないけれども日本に馴染み深い古典の教養をつけたい方にオススメです。
・齋藤希史
『漢文脈と近代日本』
今回私が言いたかった「日本語には漢文が馴染み深い」ということを裏付ける一冊です。
・中島隆博 先生
『悪の哲学―中国哲学の想像力』
中島先生の書はどれも難しく、エンジョイ勢では心が折れそうになりました。中国哲学を本当に哲学として求める方にオススメです。
筆者背景
「鉄緑会」という塾で6年間「英語」を教えていました(プロフィール記入には社長の許可を取っています)。大学受験(東大)向けに中高一貫校の生徒に教える場所です。受験は毎年ガンガン新しくなっていくため、元講師の言葉は現塾の見解として捉えないでください。また、英語を教えていたので国語入試に関してはエンジョイ勢です。それでもゲームよりも受験の方が年季はあるため、古典を学ぶのがイヤな人達の一助になればと思い記しました。