こんにちは、ピングドラム大好きおじさんです。今回は、納得するピングドラムのモチーフ考察を書きたく存じます。これを読めば、長年悩んできたピングドラムの疑問もスッキリ解決間違いなしです。(ピングドラムはアニメ『輪るピングドラム』を指します。)
キャラについては、こちらで画像を掲載しないため
公式サイトを御覧ください
まえがき
昨今に溢れている『ピングドラム考察』を拝見すると、
- 2011年当時の解釈に影響されているものが多い
- 人物や描写に焦点を当てることが多く、全体のモチーフに関して考察が少ない
です。前者は、当時2chの実況でリアルタイム視聴の際に発生していた集団心理の解釈が尾を引いている箇所があり、その後タブラ・ラサの状態で視聴すると視えてくる解釈が異なるという理由がございます。つまり私は先人の考察を否定しているわけではなく、時間の経過ゆえに視えた部分が有ると考えています。後者は、私が様々な考察ブログを読んだ故に視えた点です。一度視聴してのちに疑問を持って考察を読んでも「ここがハッキリしない」「ここを知りたいのに」という感想を度々抱きました。その経験を基に、以下の考察を構成しました。
→ただ、私が求めている所は「ピングドラムの真理の追究」であって、持論の証明ではございません。ご質問・ご指摘ございましたら是非
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考察は各パート毎にモチーフを説明して行きます。 逆に「このシーンのこの描写がコレを意味している」「この人物の心情の変化」といった考察は余り行いません。描写の部分に関しては、 「まわるピングドラム まとめwiki」 が網羅性が高かったため、こちらで十分と考えています。
前提として、公開されているこの作品のテーマは「家族」であることを忘れてはなりません。これは念頭に置きましょう。
考察本編
ではこちらから。
1. 運命の果実
■ 運命の果実 = リンゴ = 家族愛(一緒に生きること)
と考えます。20話に「運命の果実を一緒に食べよう」と言いながら晶馬が陽毬に「リンゴ」を差し出すシーンがあります。これは晶馬が陽毬を家族に引き入れるための行為でした。また、メタファーとしてのリンゴは「運命の果実」と一致することが自明で良いでしょう(玄関に置いてあるような具象的なリンゴはこれに含みません)。
補足:家族と罰
この解釈を取った場合のみ「生きることは罰なんだ」という晶馬のセリフが有機的な繋がりを持ちます。つまり、「生きることは罰」であるため、「運命の果実を一緒に食べる」とは「一緒に罰を受ける」という意味となります。そのため、晶馬や冠葉は「運命の果実」を共有した陽毬に対して、自己犠牲を厭わずに救う方法を模索します。また、晶馬と冠葉は親を愛しているため “事件” の罰を負い続けています。これについては、まさこの一家も同様です。
この作品では、高倉家の3名(冠葉・晶馬・陽毬)は血縁関係はありません。しかし真実の家族として描かれています(最終回に分かりますが、運命の果実を共有していたからです)。多蕗さん・ゆりさんは結婚しているけれども愛がありませんでした。この2名は親とも愛を感じていません。苹果の家族も崩壊した姿が描かれていました(ただ苹果は13話以降一歩先に進む姿勢が描かれていました)。
補足:眞悧先生と罰
眞悧先生はKIGAの会(企鵝の会)のボスであり霊体であり、桃果に一度半分封印された者でした。眞悧先生は封印された結果、2羽のうさぎと成ります。この2羽のうさぎが其々、陽毬とマリオさんに呪いをかけています。これが「罰」です。私はそう解釈しました。そして、桃果はペンギン帽子2つに成りました。ペンギン帽子は、うさぎの呪いを抑える力があります。
これは13話で登場する「メリーさんのひつじ」の寓話と一致します。
眞悧先生と桃果の2人は、この作品の根幹システムに関わる人物です。眞悧先生やKIGAの会はこの世は「箱」のようだと述べてました。人間が全員箱に収まって生きており、徐々に無個性になっていくと解釈していました(最終回で冠葉と晶馬が入っていたオリがこの暗喩)。眞悧先生は95年の “事件” でそんな世界を変えるつもりでした(どう変えるのかは明言されず)が、桃果に阻止されたため、作中では冠葉を利用して再び “事件” を決行するつもりでした。眞悧先生は冠葉を誘導するために陽毬に呪いをかけたとも推測されるでしょう。
2. 何者にもなれないお前たち
■ 何者にもなれない = 透明な存在 = 家族から愛されない = (リンゴがない)
です。一見タダのバンクに視えるプリンセス・オブ・ザ・クリスタルの定例発言「きっと何者にもなれないお前たち」ですが、愛・リンゴとの繋がりがございます。何者にもなれないと透明な存在になってしまうため、生きられるかどうかに直結する(生存戦略)わけです。
透明になることを回避するには、愛を差し伸べることで「こどもブロイラー」から救えば良いわけです。多蕗と桃果の関係のように or 陽毬と晶馬の関係のように。
註釈:こどもブロイラー
このアニメはメタファーとデフォルメがわざと混同し易いように描かれています。(メタファー = 隠喩;別のなにかを代理で表現したもの。最終話の心拍計が該当。デフォルメ = 実際に有るものを砕いて描き直したもの;苹果の毛虫のシーンが該当)
それで言うと、こどもブロイラーはメタファーと解釈します。他の方の考察に依っては(Wikipediaも)、こどもブロイラーは実在する施設であるかのように説明していますが、私はこどもブロイラーは具体的には存在しない施設だと考えています。生きていると次第に人間を無意味なものにしていく、即ち「透明な存在」に変えていく社会であったり、社会のそのシステムを総じて「こどもブロイラー」で表していると考えています。そのため、愛を見つけたこどもはこどもブロイラーを脱しました。多蕗と桃果の関係であり、陽毬と晶馬の関係がこれに該当します。
KIGAの会(企鵝の会)、即ち冠葉や晶馬の親たちは、こどもブロイラーを内包する社会を疎んで行動をしていました。
3. 疑問点:ピングドラム
結局「ピングドラム」という固有名詞(?)は何だったのでしょうか。私には確定できません。作中で途中でプリンセス・オブ・ザ・クリスタルが「電池切れ」となり退場したため、ピングドラムとは何だったのか謎でした。
考察に依っては「運命の果実 = ピングドラム」という解釈をしています。寧ろこれが多数派で、最終回も陽毬(プリンセス・オブ・ザ・クリスタル)が「これがピングドラムだよ」と明言しました。しかしそう解釈すると、
初めに「ピングドラムは苹果が持っている」と晶馬・冠葉に対して下したプリンセス・オブ・ザ・クリスタルの命令が矛盾します。運命の果実であれば、晶馬・冠葉も持っているからです。しかしこれは「初めはAという設定だったが、終盤でBに変更してしまった」というタイプではないでしょうか。
4. 疑問点:ラストシーン解釈
ここまでで、私が主張したい内容は以上です。ここまでの内容を意識されたことが無かった場合、十分な新情報となったと思います。最後にこちらにシーン解釈を持って来てしまうのですが、以下2点、ラストシーンに疑問が残っています:
- 運命を替えるために、なぜ2名が「運命の果実を一緒に食べよう」と言う必要があったのか
- 冠葉の消滅は炎ではなく「クリスタル」の描写だが、これは何故か
これらは何故疑問に思ったか、しっかり記述できるのですが、ここで疑問で終わってしまうとこのページの主旨に反してしまうと思ったため、短いNoticeで終わらせたいと思います。筆者はここを疑問に思っており、解釈できないため、分かる方がいらっしゃいましたらお教えください。
以上、
生来の丸ノ内線ユーザーである私には、ピングドラムは馴染み深い風景の多い作品でした。
小学校から高校は池袋が近かったため、よく立ち寄りました。また明言は避けたいですが、今作のモデルになっている「1995年の例の事件」については、当時父が霞が関駅を使う職業;まさに事件のターゲットだったため、他人事ではありません。
そういった関連性ゆえに、この作品により情動の増幅がかかっているのだと思います。ピングドラムは間違いなく私の中でもトップクラスに好きなアニメです。
追記:5. 結末について
よく考えてみると最終場面:最終回の運命の乗り換えシーンについて述べていなかったため、念の為筆者の見方を述べておきます。
本作は第1話が「運命」についての独白から始まり、ずっと家族愛について描いていました。特に主人公一家は血の繋がっていない家族であり、「本当の家族って何だろう?」と考えさせられて来ました。
逆に、多蕗さん・ゆりさんはニセの家族として表現されています。入籍して周りから祝福されていれば、果たして家族と呼べるのでしょうか?また、真砂子と冠葉のように、血が繋がってさえいれば本当の家族なのでしょうか?
ここに結論を下したのが最終回であり、この作品『輪るピングドラム』の主張だったと考えています。
この作品では多くの登場人物が不幸な運命を背負っていました。そこで、幸福も不幸もぜんぶまとめて運命として一緒に共有しよう …それを「運命の果実を一緒に食べよう」と表現していた、と考えます。
本文の方法で別の解釈をするとこのセリフは「家族になろう」と同義です。
ならば「物語のスタートから不幸は共有していたじゃないか」というツッコミはあると思います。しかし、最終回の「運命の果実を一緒に食べよう」という言葉からは積極的に共有しようという姿勢があります。運命が無理矢理不幸を連れてきてそれに対して受動的に人生を受け入れるのは呪いです。積極的に自分から不幸も共有する姿勢こそが家族愛だよね?と反論できます。
総じて、幸福も不幸もまとめて運命として積極的に共有することが「家族愛」である、ということが本作の主張だったと思います。
上でも述べましたが、これだけではピングドラムが何だったのかは結局不明です。深読みするならば「家族愛の力が運命を変えるほどの威力があった」といった見方が出来ます。ここばかりは制作陣の胸の内です。皆様自身で考えて解釈を持てるポイントだと思います。