恋心は超グリーディ

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Jun 18, 2020 - gamerlogy tournament

ゲームイベントと民度の対処法

筆者は「民度」という言葉が嫌いであり、長らく苦しめられてきました。

「民度」という批判は評価を勝手に塗り替える力があります。 筆者はゲームの大会運営に関わることが多いです。自分が運営(TO)の場合もありますし、仕事の場合はなおさらライブ配信画面ばかり関わることとなります。そのため、目撃することも多いです。運営がどれだけ上手く行き・丸く無事成功しても、ライブ配信の視聴者が競技者・運営を(なぜか)叩くコメントをしていると「あの大会は民度が低かった」という評価を受け、人々の記憶には「駄目な大会」として記憶されます。「コメント欄」という一種の運営外の要素によって運営の出来を判定されます。「大会の民度が低かった」と言われましても、それは運営の民度が低いのではなく、低いのはおぬしのお友達では?と筆者は常々思うのですが、その雰囲気の泥をかぶるのも運営の立ち位置です。つまり本日は「視聴者の民度を高くする」といった感情的な話ではなく、「民度が低い!」というコメントを寄せられる方へ対処する話を述べました。

例えば筆者は人望がないので、最後まで決まりかけたところで「いやあいつは人望がないから」と意見をひっくり返されます。他にも塾講師時代、筆者は出身高校がヤバく大学の学部もパッとしないため「あいつは〇〇出身だから」とはじめから顧客から低評価を頂くことがありました。(※高校の治安の悪さで言えばメジャー校で、なんとマンガ『アイシールド21』では筆者の出身校がモデルとなった所が風体が悪そうなモブキャラとして一瞬登場します。)この人望・学歴と同様に、全ての議論・評価を差し置いて全てをひっくり返す力のある「民度」という言葉について、今日は背景理論やソースがない話を、定性的にかなり好き勝手に並べようと思います。

特に今回はゲーム内の民度というよりも、ゲーム外でネットや大会の場での民度について扱います。大会運営の方のうち「民度が低い」と批判されることに困っている方がターゲットですので、非常にニッチな内容になりました。
(いま時事的に政治家の方が「民度」という言葉を使われましたが、この内容は3ヶ月かけてのんびり書いたため特に世相を反映したものではございません。)

民度の背景

「民度」という言葉は最近の語彙であることが知られています( Enpedia )。科学的・文化人類学的・心理学的な検討はありません。Google 検索の define: コマンドでは「民度」はヒットしないほどマイナーな語彙です。

“代替メッセージ”
[Google Trend : 民度(2004年から2020年4月まで)]

Google Trends を拝見しますと「民度」という言葉は以前は余り使用されていませんでした。主に2011年より徐々に使用されるようになってきています。2004年8月に一度大きなピークが来ていますが、これは当時の石原都知事が特定の外国を指して「民度が低い」という発言をした時です。寧ろ、確たる証拠はありませんが、石原慎太郎さんが語彙「民度」の現代的使用法の始祖である可能性が有り、ゲーマーがこぞってその言語的フォロワーになっているとも言えます。(皆様も「民度」と発するときは一度政治的発言であることを思い出して頂きたいです。)今ではこの「民度」という単語が漢字圏に逆輸入されていますが詳しい経路は不明です。

一方「ゲーマー 民度」で Google 検索をかけても、検索1ページ目で一致記事は大体出尽くします。個別のページにてあまり「民度」について議論している方はいらっしゃいません。つまりは、民度についてまとまった理論はなく、単に掲示板や Social Media で個別の感想として民度という言葉を用いて投稿しているケースが多数なのではないかと逆算(推測)出来ます。

追記:最近、「民度」という言葉の発祥について、帝国主義時代の植民地主義とからめて研究していた方を見つけましたのでこちらにリンクを記載します: 浅田進史研究室/歴史学」

民度の文脈

「民度」はどのようなモノ・場面をイメージしているでしょうか。

例えば通称 “死体撃ち” という行為についてです。筆者は「死体撃ちしてはならない」というルールをゲーム会社が公式に書いているFPSタイトルを見たことがありません。ただ、プレイヤーが勝手に自分で決めたルールを相手に押し付けて、相手が死体撃ちして来た場合に「死体撃ちされた!なんて民度が低いんだ」と相手側を批判する材料として使います。ここは不思議な共通認識です。義務教育の教科書でも「死体撃ちは駄目」と書いていないのに、プレイヤーの間では共通の価値観があります。筆者は死体撃ちの善悪を問いたいのではなく、重要なのは、ルールに書いていないし教わってもいないのに、倫理的な共通認識が発生することです。

この感情の程度は文化依存であると筆者は考えています。0か1かという話ではなく程度の差です。これについては 『【FPS哲学】これからの「死体撃ち」の話をしよう 死体撃ちは許容されるべきか+私見』 に幅広くまとまっていますので御覧ください。筆者は煽り推奨派ではないのですが、言わんとするところは「民度」を使用する場面の提示と、行為の受容は程度が文化圏によって異なる点です。特に「民度の批判対象となる行為」が何故よろしくないのかについては、絶対的な基準は確立されていない所は重要です。

ここは本来は「モラリズム」(もしくは「パターナリズム」)に関係する領域で議論されています。ここは議論が決着していないのですが、一つご留意下さい。死体撃ちをする個人の倫理観と、ルールを決めて対処をする大会運営側の視点は異なります。今回は「自分は煽りをしてはいけない」という善・徳・倫理に関する主観的視点ではなく、大会の運営という客観的な視点で「民度」にどう対処するべきかを扱います。

民度の使用例

「民度」を議論する場といえば、大会が挙げられるでしょう。そこで検索してみます。EVO Japan, LJL, PJS …etc 気になる方には意外かもしれませんが、Twitter で「大会名+民度」で検索して大会中でも数件/day(もしくは0)しかヒットしません。「大会名+民度」でツイートをしている人が少ないことについては可能性は3つに分類でき:1. 民度が低いと思っていない 2. ライブ配信上では発言するがツイートまではしない 3. 大会名+民度 でツイートすることが少ない …となります。特に最後の 「大会名+民度」でツイートすることが少ない場合は、大会ではなくゲームタイトルと民度を結びつけている可能性もあります。

ひるがえって Twitter で「民度」で検索してみてもゲームや政治のツイートが非常に多く、「民度」はローカル用語なのではないかと感じます。「過疎」と同様、ゲーマー用語と化した政治用語という面白いケースかと思います。こうした言語学的面白さはさておき、「民度」には科学的な定義はありませんし、文科省の教育課程には入っていません。それでもなぜか日本語に存在する共通認識であります。英語でも toxic という表現がありますが、一般的には this chat is toxic(チャット欄が荒れてる)という限定的な使い方をします。「民度」は特定の集団に結びつけて高い・低いを程度で判断する力があり、特に大会運営・プレイヤーも一緒くたに評価される力があるため、食らう側としては非常に厄介です。

ここまでのまとめ:「民度審判」

「民度」には一つ謎があります。こういった死体撃ち・屈伸といった行為を仮に百歩譲って倫理に悖る行為だとします。そういった非倫理的行為を単発で見かけることはあるでしょうが、いつの間にか「FPSは民度低いな〜」と深遠な拡大解釈をする謎の方がいらっしゃるということです。勿論その場合、判断する側である発言者は民度が高いということであり、その方は拡大解釈の枠には含まれません。ただこれらの判断は全て主観でしかありません。それは筆者が「あなたは民度が低い側ですか」や「VALORANT は民度が低いと思いますか?」といった大規模な意識調査を見たことがないためです。今のところ過去の「民度低い判定を下す方」…ここでは 「民度審判」 と申しましょう。民度審判は全て個別の事例を勝手に法則へ導いていると筆者は考えています。

もう一つ謎があります。民度審判は、自分が不快に思う行為は万国共通で全員が不快に思うことであるという自信があり、不快行為を取り締まることには絶対の正義があるという信念があります。昔は論語にも「身自ら厚くして薄く人を責むればすなわち怨みに遠ざかる」という言葉があるように、他者には仁(寛容な心)を以て接することが君子の徳だったと思うのですが、最近はどうやら他者に自分と同じ価値観を強要することが美徳のようです。この辺りはまさしくパターナリズムの議論です。

ここまでまとめると、筆者の主張としては 「民度」とは、自分が不快に思うことを基準に自分以外の優劣を一挙に判定する便利なツールということです。この「個人的不快」が自分以外の「優劣」に結びついているところが特徴であると考えています。―☆

上の☆文は今日の前提となりますので、この後も用います。

最近丁度いいところに 『「過剰なビジネスマナーが存在する組織」はたいてい、停滞している。』 という記事がございました。一部の方が不快に思う行為を全体に主張する層は、普遍的に一定数いらっしゃるようです。他にも朝日新聞さんの社説ですが 『「迷惑だ」と言いつつ「なぜ」を考えない 日本人、思考停止していませんか』 では、他者に迷惑をかける行為を思考停止して絶対視している例が挙げられています。理由はともかく、観測として、日本では普遍的に自分が不快に思う相手の行為を一方的に無礼だと判断して批判する場合があります。日本でのマナーや礼儀についての謎・いたちごっこは複雑であり、ここには記せない量です。他の方の研究をどうか参考にされたいです。ですが体感的に、主観的な礼儀を持ち込む人が居るという傾向に賛同頂ければここから先に進めます。

“代替メッセージ”
[画像は Brewing Japan 『忘年会や新年会で心がけたい!ビールの正しい注ぎ方、マナー(お酌)』 より。飲み会は精神性が重視されるため礼儀が一杯です。このビールのものは有名ですが、数年前にとっくりマナーの真偽が話題になりました。筆者は酒を飲みません。]

前提にかえりますが、今日は大会運営のお話です。大会・イベントが「民度」という軸から評価を受けますと大変なことになります。成功した大会が失敗になります。特に民度審判は呼応性が高いですから、1名が主観から大会批判を始めますと連鎖的に批判が続きます。これを防ぎたいです。

次では大会運営目線から、「民度」という攻撃への対処法を提案します。これはイベントの規約に違反する行動を取る参加者・視聴者に対処することもありますが、民度審判への対処を含みます。(大会運営の方ならば、規約に違反する方への対処よりも、寧ろ民度審判に苦戦することが多いのではないかと思います。)筆者の立場としましては、「民度」という曖昧な指標は絶対的には存在しないというものである一方、民度という言葉を用いて自分側が評価されることを防ぐことを考えています。

提案手法

そこでここから、民度審判の方への対処法について述べます。

想定しうる対処法が余りにも具体的で・詳細な議論になってしまったので、別投稿として分けました。以下のURLから飛んでください。ただ、大会運営でない方や、特にモデレーションの具体的手法について興味がない方は読まずに大丈夫です。

大会でのモデレーションとその限界

こちらの内容をまとめますと、民度審判が発生する場合は対処方法に2つの可能性があり、以下に大別されます:

  • ①モデレーションを強固にすれば大丈夫
  • ②人が人を叩かない空気は育てることが出来る

①的アプローチは確かな効果があるため、まず実践することをオススメします。これは不適切な発言・およびそれを見つけ次第発生する民度審判を削除する対策です。しかし、①では限界があることも事実です。そこで、運営・参加者・視聴者で如何にネガティブな批判を出さない空気を醸成するかという②的手法を実践することで、根源的に解決することを目指します。では②をどのように実現するのかが、以下最後のパートとなります。

共同体感覚

共同体感覚とは、自分がコミュニティの一員である自覚です。そのゲームシーン一帯に共同体感覚があることで、民度審判の登場を防ぎやすくなると考えます。

「え、コミュニティってことはこのグラフで上から順にすごいってこと?」と早とちりされる場合があるのですが、異なります。ある程度の相関はありますが一致はしません。このツイートのグラフ「視聴時間」は「ゲームの二次コンテンツに興味がある人の数」であって、「繋がっている実感がある人数」ではありません。同じゲームをしている人でも、画面の向こうや大会の運営、更には最上位勢まで、自分とどこかで地続きになっている実感があるかどうかが「共同体感覚」です。(極端な反例を出せば、多くの人はポルノに興味がありますが、ポルノの視聴者同士は共同体感覚がありません。視聴者同士の名を知りませんから。)

今日の前提として (☆参照)、民度とは個人的不快が「自分以外」の優劣に結びついているツールでした。すると民度を軸に批判する時点で共同体感覚が欠如しているという結論は密接に繋がっています。この前提を崩す、つまりご覧になっている方が、画面の向こうの世界を自分の環境と地続きであると実感することで、民度というツールを使用しない方向へ持っていくことが出来るはずです。

するとどう変化するかと言いますと、たとえイベント運営に落ち度があったとしても、見ている側が応援する空気が出来ます。たとえ余所から民度審判が現れても、そこで議論のループが始まるのではなくスルーして荒立てずに収まることをイメージしています。

机上の空論に聞こえるかもしれませんが、これを実現している例や、如何にこれを実現するか、そしてそれに予想される反論について、非常に長くなりましたので以下に別途投稿しました。具体的な詳細が気になる方は御覧ください。:

共同体感覚とゲームシーン

(↑こちらの内容は5000字近くあり、本記事よりも長くなっております。寧ろこちらリンク先の中身が本筋とも考えています。)
共同体感覚については学術的背景があるのですが、ゲームシーンについてローカルな輪を多く形成することでより多くの方に共同体感覚を持って頂くという主張は筆者独自のものです。ご了承下さい。

以上

今日の内容として「民度」とは個人的不快を基準に自分以外の他者の優劣(主に劣)を判断するツールでした。今日はイベント運営が民度審判から身を守る方法や、未然に防ぐ方法について述べました。特に未然に防ぐためには共同体感覚が重要なのではないかという提案を述べました。

今日の話は勝手な持論ですが、ご意見・反論を頂いてこの説を鍛えられると幸いです。

大会でのモデレーションとその限界 共同体感覚とゲームシーン

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