恋心は超グリーディ

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Jun 19, 2020 - gamerlogy philosophy esports

共同体感覚とゲームシーン

この内容はゲームイベントで、運営に落ち度があっても参加者・観戦者がそれを暖かく応援する空気を如何に築くかというイメージとして、元々は前の記事 『ゲームイベントと民度の対処法』 の一部として記したものです。

この内容が理論偏重(再現性不足)で、具体例も詰め込んだため非常に長くなりました。そのため、(しつこく再掲になりますが)この記事を述べた全容を把握されるためには上の本来の投稿:

■ (本記事) ゲームイベントと民度の対処法

を御覧ください。

前提

本記事 を読まれた方は次章 『共同体感覚とは』 まで読み飛ばして大丈夫です。)本記事で述べたように、ゲーム界隈では他者を「民度」という曖昧な指標をもとに一方的に評価することがあります。それに対処するために、モデレーションを用いて一定の対処をすることが出来ます。これについてはまた別途投稿していました:

大会でのモデレーションとその限界

ただ、本記事で述べたように発生し続ける問題に延々と対症療法で対処するには限界があります。そこで、如何に問題を未然に防ぐかの提案手法がこの内容となります。その場合にもはや批判の種火を起こさない・起きたとしてもネガティブな空気に持っていかないことで自衛する手法が今回の「共同体感覚」の言わんとするところです。

具体的にはそのゲームのシーンで共同体感覚を醸成することです。これはまつわる人々が同じ輪で繋がっている実感を持つという意味です。こうする結果として、なにか運営にミスがあっても応援してもらえるような空気を作ります。批判を何もかも統制したい訳ではなく、Twitter 上で晒して炎上して盛り上がることを避けて頂いて直接メッセージで交渉することを理想と考えています。

その詳細を以下に述べます。本記事にも述べましたが、共同体感覚については学術的背景があるのですが、ゲームシーンについてローカルな輪を多く形成することでより多くの方に共同体感覚を持って頂くという主張は筆者独自のものです。ご了承下さい。

共同体感覚とは

共同体感覚とは、自分がコミュニティの一員である自覚です。共同体感覚があることで、公開して民度を軸に批判する方の登場を防ぎやすくなると考えます。

「共同体感覚」は心理学者が1920年ごろに唱え始めた体系の一部です。従う研究者も多く、時間をかけて発展してきました。元ネタの共同体感覚は複雑ですが、今は「自分がコミュニティの一部に属している感覚」という表面的な意味で教育現場の実験や会社のマネージメントにまつわる文献が多く見つかります(寧ろ筆者はそれで知りました)。今日は後者の表面的な意味で用いますが、もし今後議論が必要な場合には原典に立ち返って深掘りしようと考えます。ひとまず「自分がコミュニティの一部に属している感覚」という意味で共同体感覚を使用します。

今日の議論の全ての前提として、ゲームでイベントや大会を運営していると、第三者から「民度」という曖昧な指標を軸に批判を貰い、これに為す術がないという問題がありました。つまりご注意頂きたいのですが、「界隈の民度を上げたい」という漠然とした事を目指しているのではなく、この「民度」というツールを振りかざす者への対策です。この前提は 本記事 で以下のように表しています↓

☆:筆者の主張としては「民度」とは、自分が不快に思うことを基準に自分以外の優劣を一挙に判定する便利なツールということです。この「個人的不快」が自分以外の「優劣」に結びついているところが特徴であると考えています。

即ち民度とは個人的不快が「自分以外」の優劣に結びついているツールでした。すると民度を軸に批判する時点で共同体感覚が欠如しているという結論は密接に繋がっています。この前提を崩す、つまりご覧になっている方が、画面の向こうの世界を自分の環境と地続きであると実感することで、民度というツールを使用しない方向へ持っていくことが出来るはずです。
本記事別記事 で述べたモデレーションに関する提案は、なにかが発生してもそれを消す策でした。問題を未然に防ぐ術ではありませんから、「運営がしたミスがたとえ小さな時でさえ完膚なきまでに叩かれる」という事態を対処しづらいです。ここでは当事者全員が共同体感覚を持つことで、モデレーション①に至るまでもなく、②の極致として根本的に防ぐことが出来ると考えています。すると大会運営が本当にミスした場合にも、罵倒ではなく応援を寄せてもらえる空気を用意出来ます。

例えば最近視る機会があります DJ イベントでは、なにか技術トラブルがあっても運営を応援する発言が多いです(データありません)。定性的な仮説ですが、このきっかけは聴く側・視聴者の方々がどこかしらのライブハウスで誰かと繋がっており、一つのコミュニティである感覚が醸成されていると考えます。よく「コミュニティ」という言葉が、昨今ではビジネスの場でも、用いられます。ただコミュニティという語彙を「同じゲームをしている繋がり」で考えると今日は不十分です。本日の話題を思い出すと、大会をご覧になっている方が画面の向こうの人達を批判することでしたから、同じゲームをしている同士がいがみあっていることを背景としています。ここでは同じコミュニティに居る人達が、お互いに繋がりがある意識が欲しいという所が筆者が言わんとするものであります。

大会でのモデレーションとその限界 でも述べましたが、スマブラ勢の間では大会運営がしやすい傾向があります。昨今の自粛期間中、有志で大会運営をしている人たちで集まってプレゼンをした会がありますのでプレイリストを張ります。動画からも分かる通り、これでも様々な大会があるうちの一部です。↓

筆者がスマブラの大会運営なので、選手の方や参加者の方がどう受け止められているか存じ上げず恐縮ですが、他タイトルと比べても運営がしやすい空気があると感じています。意味としては、参加者の方が締め切り前にエントリー頂けますし、意見は大会のフォームからお送り頂いています。どこかで新しく大会をすることに心理的なハードルがありません。そのため大会の開催数自体が多いのだと考えています。

逆の例を挙げます。ゲーマーならご存知かと思いますが、ゲーム会社の公式イベントは叩かれることが多いです。進行が押したりなど運営に非がある場合もありますが、インタビューの方法やMCの撰定のような感情的な部分でも炎上することがあります。この要因としては、共同体感覚に関する心理学の話になるのですが、ゲーマーから公式イベントへ対し何か貢献できている実感が薄いからかと考えられます。ただ、公式大会側からすると共同体の意識を捨てるという肉を切ることで、より幅広いユーザーへリーチしたりプロダクションクオリティを高めたりする実を取ることがあります。エンゲージメントや authenticity についてはまた別の話ですので置いておきますが、「共同体感覚が有る・無い」の例を思考実験で理解いただけましたらここまでは大丈夫です。

“代替メッセージ”

人気ゲームタイトルの中でも、オフライン・オンラインを問わずプレイヤーや運営の人が交流があるかどうかで、コミュニケーションの色が変わって来ます。これを受けてどのゲームが民度が高いなどと曖昧な主張したいわけではなく、今回の発端は「民度が低い」と言われてイベントの評価をひっくり返されることを防止することでしたので、共同体感覚を機能させて運営に楽をさせたいという意図です。ではいかにして共同体感覚を育成するかのアプローチを最後に記します。役立てて頂ければ、というよりもこの提言を受けてご自身の感覚と照らし合わせ、よりよいアイデアを頂ければ理想的です。

共同体の空気を育てる

共同体感覚をシーンに持たせるにはどういったアプローチがあるでしょうか。と問われますと、心理学や教育に関する論文を漁って定説をゲームシーンに応用するのが定石です。定石では、自己受容・他者信頼・貢献・所属感と言われます。筆者は気付いたのですが、これらの理論は人と人が既に対話しているという前提がありました。この世の社会では当然なのですが、ゲームの社会では「ゲーマー同士が会ったことがあって会話している」(オンライン・オフライン問わず)は当然ではありません。ゲーマーはゲーム自体と Social Media(主にTwitter)が有るがゆえに、そこで満足してしまう・足踏みをしてしまう傾向が推測できます。そのためゲーマーはゲーマー同士で共同体の意識を持つかどうかについて、まずは前提に立たねばならないと思いました。

ではゲーマーが前提に立つ方法として、筆者が過去に述べたもの・経験したことのうち当てはまるものを列挙します。まとめて申しますと「人と人が会う」ことが根幹にあります。内容はそれをいかに実現するかという手法の差に過ぎません。ゲーマーはタイトルごとにシーンが分かれることが一般的ですから、そのシーンの中でお互いがどれほど会った経験があるかが共同体感覚の形成だと考えます。以下その投稿の例となります。(スマブラに偏っていますが筆者の出身タイトルです。):

これらを抽象化して箇条書きに起こしますと、

  • オンオフ問わずイベントを “継続して” 開く。(公式が各地で様々な層をターゲットに常時開いてくれることが理想ですが、現在の地球上ではどのゲームでも期待できないため、ユーザーが開くことが現実的です。)
  • トッププレイヤーからビギナーまで発信の場がある。ライブ配信が一般的で、ラジオでもテキストでもなんでも良いのですが、為人が分かってインタラクションが取れれば可です。
  • ローカルのコミュニティが各所にある。「ローカル」とは各地域のものであっても、使用キャラのオンライン集会でも、大学などの場でも。

です。これらが有ると前提に立てます。

Social Media でもお互いに初対面同士でもリプライを送り合って面識がリレーされていくならば良いのですが、おそらくそこまで積極的に Twitter を活用されている方は中々いらっしゃらないと思います。そういう方がいらしても、一つのゲームタイトルを遊ぶ方の過半数がそうであることは期待できません。そのため一方的に投稿することを前提とした場よりも、意思疎通を取ることを前提とした場に立って欲しいというのは今回の前提の願いであります。

予想される重要な反論として、共同体感覚を磨いたところで「内輪」感が出てマイナス効果なのでは?というものがあります。「内輪」とは「民度」と並び、これまた科学的・文化的な分析のない用語です。この単語を用いた批判にも筆者は苦戦して来ました。どうかこれを読まれた方は「民度・内輪には専門的な定義がない」というご自身の中での安心を持って帰ってください。「内輪」には指標がないため改善策が立てられないにも拘らず、勝手に批判をする側は「あいつら自浄作用ないから、俺が言ってあげないといけないんだよね」といった絶対正義を標榜して来ます。
先人がいない中で筆者の持説で恐縮ですが、「内輪」とはローカルな共同体感覚はあるけれども批判者と地続きになっていない状態のことです。では例として、任意の大会を思い浮かべてください。筆者から適宜例を一個挙げます:

https://www.youtube.com/12vAUFA8O2E

本当にランダムに挙げた大会ですが、こちらの大会は「内輪」に当てはまるでしょうか。「内輪」には指標がないため思考実験でも検討しづらいのですが、スマブラ好きが集まった大会で今は覚えている人も多くないという意味では内輪ですし、オープントーナメントだったという側面で言えば内輪ではありません。こう見ると、数値や客観的な指標から内輪の判別は出来ないものです。
それではどこに内輪批判の起源が有るでしょうか。これも今日は共同体感覚の欠如と考えます。以下の図をイメージして下さい。

“代替メッセージ”
[図. ある大会Aが開かれる時にそれを親身に感じるかどうか]

あるゲームタイトルのシーンで共同体感覚を育てるというのは、何も一つ大きな円に全員を入れるという意味(図右側)ではありません。むしろ小さな輪をローカルに生産しそれ同士が繋がっていることを実感頂くこと(図左側)が理想に近いです。
上図ではある大会Aが開かれる時、それを参加者・視聴者が親身に感じるか・地続きに感じるかを論じています。皆が大会Aの運営に近ければ良いのですが、世の中はそうではないことが分かっています。図右側が「内輪」の感覚を誘発するケースです。「初心者が入りづらい問題」や「新規参入問題」と苦闘することになります。このように大会Aの関係者に親しくない人は全員疎外感を感じてしまうと打開は難しいです。しかし図左側のように、大会Aが他のローカルコミュニティと繋がりがあると、大会Aの関係者を知らなくとも地続きである実感がわきます。批判を事前に抑えられ、問題点は運営と直接交渉して頂ける空気が育てられます。図左側に一切の「内輪感」が無いわけではありません。各円にはそれぞれの感性が有るのですが、人との繋がりで他の円と地続きであることを感じるため、批判に繋がらないというイメージです。

「公式大会はどうすれば良いの?」と言いますと、ユーザー大会や公認大会であったり、最上位勢やインフルエンサーが上図の円のネットワークを形成していると思うのですが、その中で立ち位置を作ることになります。そのため公式大会以外へ何かしらの支援することは勿論有効ですし、最上位勢が何かしらの形で絡んでいる姿も線の形成に繋がります。(その場合でも、上位勢と視聴者が地続きの実感が得られていないと上図の右側に陥りがちです。)

他の見方では、ゲーム自体を買っている人が多かったりおもしろ動画には視聴がついたりするものの、大会に視聴者・参加者が集まらないことに苦戦するゲームタイトルがあるとしたら、この理論ではローカルコミュニティ(円)同士を繋げていないことに原因があります。

前提に立ったその先へ

ゲーマー同士が繋がりを持つことで、そもそも共同体の前提に立つことについて述べました。

上述の学術的背景として、個人の中で共同体感覚を高めるには「貢献している実感」が一つの要因です。ローカルコミュニティほど貢献出来る切口は多いですから、実感に役立てます。このジャンル外の似た例では、古くは国会ですら国民から実感がわかないことが指摘されており、繋がっている実感を持つために地方自治が大事という指摘がありました。上図のように、ローカルコミュニティ(一つずつの円)は小さいものでも・気に食わなくとも、一つ多く存在するだけで他のローカルコミュニティに繋がりをもたらす力があります。ローカルのコミュニティは多いほど平面上で同列に有機的につながり(文字通り粘菌や神経のように)、大きな輪を構成します。

ローカルコミュニティに関しまして、日本の方ですと「自分はしょぼいから〇〇しなくていいよ」と取り組みを遠慮される傾向もあるのですが、それは目的を見失っています。輪を形成したいから始めるのであって、ことの大小は目的ではありません。「数字が取れないからいいよ」といった失敗観がある方もいらっしゃいますが、共同体感覚では数字は余り意味を持ちません。寧ろ数字(ウェブサイトや映像が見られた回数)が大きいほど、共同体感覚は落ちることもあります。いま大事な部分はそれに関わったスタッフ・参加者にいかにメッセージを届けられたかです。数字については過去に 『私が何故炎上商法を是としないか - トロッコ問題にからめて』 で記しましたので参考にされてください。輪をつくるという目的がある場合は、閲覧者の数字は結果であって目的ではありません。

理屈をたれていますが、筆者は「共同体の全体構成」を実現した訳ではありません。一大会の一スタッフに過ぎないので、むしろ発信しつづけたプレイヤーの方々・各地でイベントを開いたスタッフの方々・大学やキャラ毎に活動している方々が実現しました(今も実現進行中にあります)。筆者はそれを感じる末端です。
上でもスマブラ勢は大会が開きやすいと申しましたが、以前はコミュニティ同士の繋がりが今ほどは密接ではありませんでした。長い年月を経て、現代は(緊急事態宣言以前は)オフ大会は全国で年間500回以上とも言われており、東京では平日毎日どこかで大会がありました。これに加えて多くのオンライン大会があり、オンラインの有志によるラダーサイトは1万人がレートを競っています。オフ大会に出た人数は全国累積でユニークで何千人スケールです。これも「何千人」の大会があるのではなく、毎度数十人の積み重ねでここまで来ました。今は(数年前から)大会運営視点では「大会が開きやすい」「コミュニティの繋がりを感じる」と言えます。
今回の主旨とは異なりますが、コミュニティイベントで参加費を取る場合、参加者から理解が得られなければ参加費の価格設定は不可能です。企業イベントのようにステージ建設をしないとしても大会運営は会場費の倍くらいかかるのですが、この理解が得られないと参加費の価格設定は不可能です。参加費はそのままイベントの長寿化に関わるものです。共同体感覚が広く行き渡ると、大会の費用になにがかかるのか・そしてなぜこの価格なのか理解頂けるようになります。特に筆者がオフ大会を主戦場にしていますので、共同体感覚があると参加者の方がルールの予習をされ・参加費への理解を頂けます。するとイベント開催負担が減りますので、イベント開催が増え、より共同体感覚が増す循環に入るという考え方をしています。

一括りにゲームと言っても、有志の大会運営がぞろぞろ居て、継続して大会を開いているゲームタイトルはプレイヤーの輪が強いです。これを経て、人が人を叩き合うことのない空気と、運営に優しい空気、そして問題が起きたときに晒しや批判で盛り上がらない空気を作れると筆者は信じています。
ちなみに、共同体感覚が高いと技術も上がるという古い書(Adrian Fisher ら “Psychological Sense of Community: Research, Applications, and Implications” )を紹介します。そのゲームシーンが世界で戦うことを目指している場合、ご一考頂ければと思います。

補足

共同体感覚について裏付けする例をもう一つ出します。日本ではインターネットでよく2020年オリンピック・パラリンピックの開催が批判の的になります。実際、開催地選定前に IOC から 「日本ではオリンピック・パラリンピック開催の支持率が低い」というツッコミ が入っていました。一方、実際に大会のチケットやボランティアは満員となり、イベントへの期待値が見られました。この対照的結果も同じ提案理論から説明すれば、インターネット上の民は仕事やメディアを通じても余りオリンピック・パラリンピックへ繋がりはなかった一方、インターネットへ帰属意識がない日本の方は何かしらで繋がり感じていたということです。

以上

これが、今日提案している「民度審判」(民度を軸に批判をする人)への対抗策として共同体感覚を育てるということの言わんとする所です。

机上の空論に見えるかもしれませんし、これは意図して築くというよりも築かれたものの解釈に過ぎないという視点もあるかと思います。しかしながら、今からイベントを開きたい人が「どんなイベントでも意味がある」という精神的安寧のための理由付けに使って頂けましたら幸いです。

(2021年追記)
共同体感覚について、より厳密に記した内容を用意しました。こちらの投稿を御覧ください→ 『コミュニティとは』

ゲームイベントと民度の対処法 『NARUTO』ストーリー考察

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