作品について誰かと喋る時、噛み合わないことが多いため、自分がどのように作品を見ているかを記します。ここでは例として、構図的にも知名度的にも分かり易い作品として『もののけ姫』を挙げます。
筆者としては『もののけ姫』の視点として格別新しいことを申し上げる気はないのですが、『もののけ姫』はよく挙がる話題なのに会話が上手く通じないことが多いです。そこで「いや普通こう見るでしょこの映画」という筆者のオーソドックスな視点を文章に興しました。
筆者にしては感情的で、強い口調で記します。鑑賞の主観なのでお許しください。断っておきますが、筆者はフィクション作品鑑賞の専門家ではありません。
よくある考察
『もののけ姫』が好き!という人物にお会いしますと、たいてい挙がるポイントは:
- 「朝廷とアサノ公方が〜」
- 「師匠連と明の関係が〜」
- 「石火矢という武器は〜」
です。こうした細部を、作中では語られきれていない日本史の知識と結びつけて議論を展開するものです。
こういった部分については、今回筆者は触れません。マニアではない方には意味が分からないかもしれませんが、例えば 『高畑・宮崎作品研究所』というウェブサイト に凄くしっかりまとめられていますので、ご参考にされてください。
実際、作品をミクロ的な部分でご覧になる方は多いと思います。こうしたミクロ的な考察も筆者は楽しんで拝見していますし、勿論ファンの中でもミクロに拘らない方も多いと思います。ただ、ミクロ的な考察をされる方が、「全体のストーリーの流れ」を把握していないのはいかがなものかと思い今回の文章に至ります。
もののけ姫とは弁証法
では「全体のストーリーの流れ」とは何でしょうか。今回はこれを書くために文章にしました。
『もののけ姫』とは「弁証法」であると筆者は見ています。
特に「自然」と「人間」が対立し、「共生」という境地に至っています。
作品外の用語のため恐縮です。弁証法の説明を申し上げます。弁証法とは、「概念A」と「概念B」が対立することで、新たな境地「概念C」が生まれることです(図1)。
[図1. 弁証法について]
フィクションの構成としてはよく用いられます。筆者は『もののけ姫』は弁証法的な見方をするのが王道だと考えています。
弁証法の中身
具体的に弁証法がどう描かれていたか説明します。『もののけ姫』の登場人物は以下に大別されます:
- 自然:モロ, 乙事主, コダマ 等
- 人間:エボシ様, ジコ坊, タタラ場の皆さん等
彼等は、自然チームや人間チームの間にも色々ゴタゴタがありますが、概ね「自然vs人間」で戦っています。人間は鉄を作り、山をハゲさせてイノシシを撃ちます。それに対し自然は、乙事主をはじめとしたイノシシ軍団が人間に勝負を挑み、モロたち山犬一族も共闘します。生きるか殺すかの争いが起こっていました。
そこに、アシタカという中間人物が現れます。アシタカは自然と共生する文化のある村で育ち、人間チームにも自然チームにも停戦を説きました。特に、エボシ様がシシ神を狩りに行く前に、アシタカが現れて停戦をお願いするため、エボシ様は「シシ神殺しをやめて、侍殺しをやれというのか?」と訊きます。それに対するアシタカの答えは:
違う!森とタタラ場、双方生きる道はないのか?
でした。
[図1. 弁証法について]
結果として、人間チームは自然チームのボスであり象徴でもある「シシ神」様を撃ってしまうと、環境が壊れて自然チームも人間チームも全滅しかけてしまいます。しかし、融和を説く中間人物であったアシタカとサンが、人間の手で首を戻したことで最悪の事態は免れます。これが弁証法であるというのが筆者の視点です。自然と人間が対立して、どちらかが滅びるまで戦いが続くように見えますが、結果としては「共に生きる」という境地へ至ります(図2)。
深読みしたメッセージ
ここから先は筆者の意見というよりは推測の域に入ります。自然と人間が「共生」するという結論から、どういったメッセージを作品は送っているのでしょうか。
ジブリ作品は昔から自然を大切に描いて来られましたが、特に『もののけ姫』周辺では自然環境について目が行く時代だったはずです。『もののけ姫』が公開された1997年は、世界的に環境問題の話題が盛んにだったからです。1992年に COP(国連の気候問題会議)の枠組みが出来、複数の会議を経て1997年ちょうどに有名な「京都議定書」が国際的に結ばれました。絶滅危惧種の基準でも有名な「レッドリスト」も昔からありましたが、現在に続く大枠は1994年に決まりました。偶然かもしれませんが、フィクション作品では1997年に発売された “FINAL FANTASY VII” も「惑星の命」といった環境問題がモチーフになっています。
そこで、「人間の経済活動を取るべき」か「自然を徹底的に守るべきか」の議論があったはずですが、両極端な意見ではなく「共生」というメッセージを提示したのが『もののけ姫』であったと筆者は捉えています。(ここが「はず」であったり推測であったりしますのは、筆者が当時の情勢を余り理解していないためです。)
特に、上述のエボシ様の台詞である:
シシ神殺しをやめて、侍殺しをやれというのか?
という文言は、当時も現実世界で存在したはずです。つまりは「自然を保護しすぎたら人間の資源が足りなくなり、戦争が起きる」という究極的な議論です。ただこの作品が言いたかったことは、極論ばかり考えるのではなく、本当に持続可能な道があるはずだというメッセージであったと考えています。
考察は以上です。
この内容に賛同されなくとも良いのですが、少なくとも「こういう見方は普通は在る」という存在くらいは認識されたいと思っています。実際に『もののけ姫』が好きという方と話して日本史や民俗学の話ばかり出てくるのですが、いざ「デイダラボッチの死は、共生という観点からどういう解釈があると思いますか?」と訊ねても、
- 「え、あれファンタジーなんだから自然とか関係ないでしょ。」
- 「それはお前の妄想でしょ。深読みしすぎると嫌われるよ。」
- 「なるほど、お前はエボシよりサン派ってことね。」
(いずれも実話)と言われるのは納得いっていません。
蛇足:細かい知識と全体の流れ
筆者の考察は細部の深堀りではなく、「全体のストーリーの流れ」の構図を見たものです。
こういった「全体のストーリーの流れ」を見ることなく、ミクロ的な考察のみをするために知識で戦う方を、昨今筆者は勝手に「マウントを取るための知識」と呼んでいます。筆者と同類の指摘では、ベタな用語ですが、東浩紀さんの言うような「データベース的消費」があります。東氏は著書『動物化するポストモダン』の中で、オタクたちは一般的に:
作品世界のデータそのものには固執するものの、それが伝えるメッセージや意味に対してきわめて無関心である
と述べています。つまりは、現代のオタクの方々は上で述べたような細部の「マウントを取るための知識」つまり声優さんの作品外でのご振舞や日本史については非常に詳しいのですが、全体の流れをご覧になっていないということです。勿論筆者も細部にハマることはあるのですが、「全体像を見ることなく細部だけにこだわる」ことはイマイチだと思います。
蛇足:弁証法はこじつけでは?
弁証法で考察することは、そもそもマイナーな手法なのではないでしょうか?というご意見が想定されます。筆者は弁証法はフィクションを捉える際に主流な手法であると感じています。
弁証法は、過去に筆者が挙げた作品では『ゼノブレイド』や『プリキュア』といったシリーズで現れました。古いものでは『ハムレット』の有名台詞「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」も弁証法です。最終的には「なるようになれ」(原文:Let be)という境地に至ります。
(※実は「生きるべきか死ぬべきか」と訳した専門家はどこにもおらず、翻訳者の中でもこの邦訳は謎になっているということを断っておきます。)
しかし、調べても『もののけ姫』を弁証法で捉えた意見は全然なく、不安になりました。まず、Twitter で「 “もののけ姫” “弁証法”」と検索したところ現在9件しかありません。しかも多くは 「弁証法的な緊張関係-高畑勲と宮崎駿の50年-」 という今回とは関係のない記事についての話題であり、作品解説についてではありませんでした。その中で一例だけ見つけました: 『持続可能なブログ』
また少し変則ですが、なんと弁証法について解説している哲学のスライドで『もののけ姫』を見つけてしまいました: 『社会科の授業案、授業アイデア(アクティブラーニング)』 。こういった事情で、余り表に出ていませんが、「どう見ても『もののけ姫』は弁証法でしょ」と筆者は強く感じたため、僭越ながら嚆矢となるようにこの文章を出しておきました。
以上
筆者のマクロ的な考察は、あくまで王道というか「パッと見こうでしょ」というイメージに過ぎません。もし、よりしっかり考察されたものがございましたら是非お教えください。