恋心は超グリーディ

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Oct 27, 2020 - gamerlogy philosophy esports

「いいね」を貰うためにゲームをする主義について

最近「Twitter でいいねを貰うためにゲームをする人」についてリアルの場で話題が挙がるため、自分の中での理屈をまとめておきます。昨今では esports, プロゲーマー, ゲームプレイに関して概念的な議論をされる方も増えたと感じています。ですが議論内容について、実は対立する概念をごっちゃにしていることも多いと感じたからです。

承認欲求の為にゲームをすることは全く問題ではありません。実際に人類の便利技術の向上は凄まじく、プロではない在野のゲーマーの方でも、ソーシャルメディアにとんでもないプレイの映像クリップを投稿してシェア(Retweet)・いいね等のリアクションを頂く機会は増えたでしょう。

ただ、「他者から評価をされるため」を第一目標に何かをすることは、別の概念と対立することもあります。例えば、ここに2つの立場に基づいた主張があります:

  • 1:「ゲーマーの社会的地位を上げたい」「Esports をオリンピックに」
  • 2: 問題が起きた時に「選手を大事にするべき」

いずれもよくある主張です。1. は「全体主義」で、2. は「個人主義」に分類されます。ではどちらを好む人が Twitter で「いいね」が欲しいゲーマーでしょうか。
結論から申し上げると 1. なのですが、それについて説明し、最後に提案を申し上げます。

全体と個人の対立

一般的に「全体」と「個人」は対立しています。人類史上長らく議論されて来ました。このように分類されます:

  • ① 全体主義:保守派・秩序・権威
  • ② 個人主義:リベラル・自由・意志

完全なる二項対立という訳でもないのですが、今回は概ね対立するものとして考えてください。(※厳密なことは全部放置して、今回は大雑把にこのように分類しました。)全体主義・個人主義と言うと「ファシズム vs 革命」のような構図を思い浮かべるかもしれませんが、政治運動以外にも日常や個人信条でも使うことができる概念です。

それでは、日常で現れる例を出しましょう。これは過去の偉人が例えたものですが、ダビデ像を想像してみてください。

“代替メッセージ”
[ダビデ像。 photoAC より]

ゲーマーも含めた一般人全般で、①②の人が其々この全裸の芸術作品をご覧になったら、どのような反応を見せるでしょうか:

  • ①全体主義「全裸じゃん!流石に股間丸出しはヤバい」「どんな先生に仕えたどこの流派の人が作ったんだろう」
  • ②個人主義「すごく美しい」「自分もこんなの作れるようになりたい」

となります。この差はどこから来るのでしょう。今回はこの差を説明することで、個人主義と全体主義の差を申し上げます。そしてそれらをゲーマーと結びつけて説明します。

全体主義

①全体主義の人は「全体」を大事にするため、権威や秩序、法律や社会通念を重んじます。するとダビデ像の全裸は倫理的・法的に駄目なので「破廉恥な!」と感じる訳です。同様に、先生や流派といった “格” にも価値を感じます。全体主義の人は、もし仮にダビデ像を作ったのが日本のそこら辺の男子小学生だと聴かされたら「やっぱりクソガキが作ったんじゃないか!股間の露出なんて言語道断!」というリアクションを取るでしょう。

※厳密に「全体主義」=「保守派」=「権威を重んじる」という絶対法則が有る訳ではありません。ただ今回は簡易化するため、全体主義と個人主義で言ったら、保守派や権威・秩序を重んじる人は全体主義に分類されるという意味で繋げています。

では全体主義ゲーマーとはどんな人でしょう。分かり易い例では、ゲームの大会で「円滑な進行のために遅刻ルールを厳しくします」という運営判断を支持される方。これは明確な全体主義です。「全体」という集合を重視し、迷惑をかけるハミ出し者を処罰するという字義通りです。同様に「オンライン対戦で無線LANを使う人を罰したい」という思想も全体主義です。他にも「ゲーム会社の判断は絶対」という主張もそうです。権威を重んじるからです。

ただ、筆者の解釈では「全体主義ゲーマー」はこれに限りません。「ゲームを通じて自己実現がしたい人」も広義の全体主義ゲーマーだと想定しています。

スーパープレイのクリップを Twitter でシェアして「いいね」が欲しい人や、チームに所属してプロの肩書が欲しい人がそうです。他人からの評価や地位が欲しいのは、権威を重んじる全体主義の美徳だからです。流行っているゲームタイトルをプレイする自分は、マイナータイトルをプレイする友達よりも優れていると感じる人もそうです。

はじめの「他者からいいねを貰いたいゲーマー」はこういった理屈で①に分類されます。また、こういう人達が理論上「ゲーマーの社会的地位を上げたい」という主張に辿り着きます。

個人主義

一方、②個人主義の人達はダビデ像をどう見るでしょうか。権威・秩序に価値を感じず、純粋に自分から見てどう感じるかであったり、自分のエクスペリエンスに繋げて考えます。そのため、純粋な芸術性や技のスキルを評価して「美しい」と言うでしょう。仮にダビデ像を作ったのが男子小学生だと聴かされたら「天才だ」と感嘆するはずです。個人主義は過去のしきたりやルールよりも、自分の感受性を大事にしています。

では「個人主義ゲーマー」とは何でしょう。ゲームがしたい気持ちを重視し、貪欲に勝利を求める人間をイメージしています。
たとえそのゲームタイトルが日本で流行っていなくとも追究する人は実に個人主義ゲーマーです。「ゲームがしたいからゲームをする」という意志があるからです。トレーニングモードやBot撃ちを楽しむ心も個人主義でしょう。また、自由の観点からは、他者がやっているゲームの mod を倫理的にとやかく言わない姿勢になります。(自分が mod をやるかどうかの美徳は、また別の議論になります。)

個人主義の視点では、プロゲーマーになる意味はありません。ゲームのスキルさえ磨けるならば地位は無価値だからです。しかし、どうしてもゲームがチーム戦だったり、プロにならないと対戦環境が得られなかったりするため、自由を少し捨ててプロ化することは有ります。個人主義の観点では、プロの給料とは自由の代償で説明できます。

この先にある主張が「選手を大事にして」です。例えばチームと選手の契約で揉めた時に、多くの外野の方は「選手を大事にして」と主張されますが、チームや組織と対比して「選手」の自由・人権を保護する内容は個人主義です。(反対に全体主義的な発言は「ミスった奴は自己責任」です。)
間違えやすいですが、個人主義は「贔屓」とは異なります。例えば選手Aさんが所属チームとトラブルになったとしましょう。今回あなたが「選手を大事にすべき」と言いつつも、Bさんがトラブルになった際は「契約書も読まなかったのかよ!自己責任」とおっしゃるのであれば、それは「Aさん贔屓」なのであって、個人主義ではありません。個人主義とは、全体と個人を対比して、個人側の立場にある者を別け隔てなく大事にする考えです。

“代替メッセージ”
[背景として、リベラル(個人主義派)は「権威・集団・純潔」に興味を示さないが、保守(全体主義派)は大事にしているという結果。 Jonathan Haidt, TED から。]

どっち派

これらを踏まえて、皆様はどちら派でしょうか?

普段は ②「選手を尊重するべき」と主張しつつも、①「ゲーム会社の主張には絶対従うべき」という考えであったりしますでしょうか?分類するとこれらは相反する意見です。その主張を発信し続ければ、どこかで自分の中で立場の衝突が起きるはずです。しかし、現実的に一つの人間の中でこれらの価値観は混在していると思います。

では無理にでも「どっちか」と言われたら、現代では ①全体主義派 が多いはずです。
日本では選挙の結果「保守派」が過半数を持っていることから説明できます。他の要素も見渡しますと、就活での学歴社会や、仕事で地位を重んじること、歳上の人に敬語を使うこと等、一般的な価値観は全体主義的です。

更にはソーシャルメディア、特に TikTok や Instagram の「いいね」数を重視する価値観も全体主義だと筆者は分類します。今や5歳児でも、再生回数の多い動画が面白いことを知っています。他者からの評価が「数字」であり、ならば数字に価値を見出すのは全体主義です。
今回はその逆に目を向けて頂きたく用意しました。

ゲーマーの個人主義

日本社会の中でもゲーマーは ②個人主義 が生きている珍しい集団だと考えます。

例えば、巨大ゲーム会社のAAAタイトルが必ずしも売れるとは限りません。逆にインディータイトルでも売れるものは売れます。権威はゲーマーに必ずしも響かないということです。また、PvP ではバグが多かったりチーターが増えたりしますとプレイしたくなくなるのは共通認識です。他にもゲーマーは動画を探す時、再生回数が少なくとも本当に為になるモノを選んで参考にして来ました。このように、「そのゲームをプレイするかどうか」という根底の部分でゲーマーは個人のエクスペリエンスを重視し、非常に個人主義的になります。

更に現代の最前線を拝見しますと、個人主義的な面白さと全体主義的な承認欲求を双方満たすゲームが人気があると感じています。ゲームで自分が行ったスーパープレイを映像で切り抜いて Twitter にシェアすれば、たちまち多くの人から「いいね」が貰えます。順位や「いいね」は、他者からの評価であって、自分のスキルではありません。そういう意味で、特にバトルロワイヤル系タイトルは非常に全体主義の感情を刺激してくれる良いゲームです。(筆者もバトロワ系をプレイし、シェアして来ました。)

“代替メッセージ”
[過去に様々な例がありますが、通称 “Fall Guys” は所謂 AAA ではないにも拘らず、今年世界中でヒットしたバトロワ系ゲームです。]

するとこのように、ゲーマーはプレイする際は個人主義であるのに、ふと社会的な要素が現れると全体主義の表情をあらわにます。日本社会やソーシャルメディアでの「いいね」価値観と同様、全体主義に馴染んでおり、過保護なシステムに慣れているからでしょう。

例えばご自身が熱心にプレイされている PvP タイトルが、他所のタイトルと比べて大会開催頻度が低かった場合、どういった不満を抱くでしょうか?「ゲーム販売元の会社がもっと公式大会を開いて欲しい」と感じる方が多いでしょう。それには留まらず、ゲーム販売元が大会を完璧に、年中通して、需要をすべて満たすレベルで開催して欲しいという意見も散見されます。これは全体主義的な “大きな政府” の考え方です。

他にも一般的に「そのゲームの大会で賞金が上がればプレイヤー人口も増えるのでは?」というご意見があります。これも個人・全体主義の混在から来る発言です。社会的な部分ではゲーマーは全体主義的になるので、権威に基づいた「賞金」が魅力候補として挙がります。しかし、ゲーマーがゲームをするかどうかの根本的な部分では個人主義的なので、実際は賞金から競技人口に直結した例はほぼ無いでしょう。

この「ゲーマー個人・全体主義の混在」の延長線上にある心理が、問題が起きた時に Twitter で暴露・晒しを行うことだと考えます。これは問題解決に目的がなく、臨界点まで達しても「他者に評価されたい」という全体主義的美徳が発動していると分析します。さもありなん。問題解決は個人主義的であるのに、プロになりたい心理も Twitter で暴露して「いいね」が欲しい心理も共に全体主義で説明が出来るため、現代のプロゲーマーが問題が起きた時にツイートする行為は一貫しているのです。

ここまでゲーマーはゲームをする時は個人主義であり、社会的な要素が入ると全体主義的になる傾向を申し上げました。これを踏まえて、以下のご提案に移ります。

筆者の提案

筆者はゲーマーに社会的な面でも個人主義の視点を補強して、立ち上がって欲しいと考えています。

社会的な面での個人主義とは何でしょう。例えば上の問題「大会頻度が低かったらどうすべきか」では、クオリティが低くても、対象者が少なくても良いので、自分たちで大会を開くべきです。これについては過去に以下で述べています:

ファンの方でも、自分が好きなことは遠慮なく発信しましょう。それが評価されるかどうかは問題ではありません。ゲーマー友達同士の輪を作りましょう。ツッコめば、ゲーマーでないリア友にゲームを布教するのは特に有効です。また、動画・ライブ配信といったコンテンツを作る際は、需要がどうとか考えずに、自分が欲しいもの(もしくは過去の自分が欲しかったであろうもの)を好きに発信しましょう。(追記: 「好きなこと」についての解説を書きました 。)

「ゲーマーがなんでも自己責任でやれと言うのか」というご指摘は、そうでありそうではないです。上述のように “自己責任” は全体主義的で、全員同じレールに乗るべきでハミ出した者は苦労せよという発想です。筆者が申し上げますのは、ゲーマーが個人個人で好きに何かをするシステム・サービス・法律は整えられており、後はご自身でそれを活用するだけということです。現代ゲーマーはつい受け身になって、大会もプロ化もスポンサーも問題解決も誰かがやってくれると思っています。

在野の方でも、ゲーマーとしての自分の履歴書や、やってみたいイベントのプレゼン資料を作ってシミュレーションをしてみると、やるべきことが思いつくはずです。イベントならばソーシャルメディア, 映像, ウェブサイト, ハコ, 機材, デザインなど、必要なモノは環境によって異なります。そもそも「習慣」が必要な場所もあります。プレゼンでは「顔の入ったシーンの写真」が有効なことが多いです。プレイヤーならば、目標は何でしょう。戦績が必要なのに大会がなければ、自分で作ることも視野に入ります。分からなければ、どこかオフラインイベントに行ってみて交流してみましょう。(いざとなったら、筆者の無責任ですが全国各地にスマブラ勢が居てオフ大会をやっているので当たってみて下さい。)いずれプロになるという際にも、こうした経験から「法律や契約とはどういうものなのか」という直観が役に立ちます。

“代替メッセージ”
[レンブラントの『夜警』, Rijksmuseum より。「王侯ではなく、平民が自分たちで何かをやる」という姿勢が現れた一作です。本当は夜でも警備中でも無いのですが。]

確かに「選手は競技に専念できるべき」という発想もありますが、それはプロシーンで運営陣が持つべき理念です。それでもその理念は:

  • プロ選手は契約書を確認しなくてもいいし、チームは完全に選手側に良心的にすべき
  • 問題が起きたら必ず全面的にチーム・大会運営が悪い
  • 在野の人間が、周りに草野球運営がいないことを日本プロ野球機構の所為にしてよい
  • イベントやチーム運営の具体的な収入支出について、知らないと知っているとでは知らない方が良い

ということを意味しません。色んな視点が混在していますが、まとめますと上位組織が自分の全需要・安全環境を満たしてはくれません。ゲーマーは自分のためにやれることがあるはずです。草の根の盛り上がりや意識の向上は、プロシーンの洗練にも繋がります。

念の為、筆者が言う「個人主義になれ」とは、クレーマーになることを意味しません。つまり、コミュニティ大会の運営に対して「そんなことも知らねえのかよ死ね」「ルールもちゃんと作れない奴は二度と大会開くな」だの言う人はここでの「ゲーマー個人主義」ではないということです。個人主義とは、運営に呼びかけるのではなく「自分が何か力になれないか」と動くことをイメージしています。
補足ですがクレーマーを防止する手法が、嘗て述べました “共同体感覚” と考えています: 『共同体感覚とゲームシーン』 (ざっくり申し上げますが、大会やDiscord等を通じて、コミュニティ内のプレイヤーがお互い全員「知り合いの知り合い」範囲内になっておくことで、全員の当事者意識を持たせる方法です。時間はかかりますが効きます。極論、いつも大会の会場写真が出ていて参加者が顔出しに慣れていると、凄くやりやすくなります。)

以上

個人主義と全体主義は善悪の対立ではありません。強いて言うならば双方「善」です。筆者が申し上げたいのは、全体主義を撲滅したいのではなく、個人主義の側面にも目を向けて、既存の「上位組織に期待」から少し脱却して頂きたいということです。筆者はアメリカのゲームシーンを追いかけた者ですので、特にこういった考えになりました。特に esports のアメリカからの輸入品としての側面を見て、精神性について説明を試みたのが今回になります。

今回は他者からの評価ではなく、自分が何をしたいかを追求した内容となりました。そこで「おぬしの会社、割と数字で色々見とるやんけ」というツッコミはあると思いますが、私の意見としては数字は結果であって目的ではありません。「炎上商法でも何でもしても良いから数字を伸ばして」とは申しておらず、個人の観点から「何をしたいか」を追求した結果、出た数字をトラッキングするべきという発想です。

詳しい方では「個人主義が相対主義に陥って、個人の堕落を産む」といった主張があることをご存知でしょう。ただ、それは個人主義が行き過ぎた状態であると思います。現状の日本は全体主義が強く行き渡った状態だと考えているので、一度個人主義に目を向けても良いのではないかと筆者は捉えています。

本当は保守と権威、リバタリアン・社会的アトミズム・コミュニタリアニズム …etc といった細かい部分も考慮すべきなのですが、長くなり過ぎるため今回はこうした大雑把な分類にしました。

補足:チーター

この理論では「チーターを正当化している」という批判を受けます。そうではないのでそこを補足します。

個人主義は、好きなゲームを練習して腕前を磨いていくことに喜びを見出す感性です。逆に、過程をすっとばして勝利だけ取りに行くチーターの姿勢は全体主義であると考えています。「勝利」とは社会的な要素であり、チーターは「勝利」が権威であることを知っていて、他者との序列の中で優位に立つことを喜びとするからです。

それを裏付けるために想像して欲しいのですが、

  • 強いやつと戦うとワクワクする『ドラゴンボール』の悟空
  • 自分の詩が売れない一方で同期が官吏として出世したことが嫌で、虎になってしまった『山月記』の李徴

の2名で、どちらがチーターになりそうでしょうか?近くの友達と比較して推測頂きたいのですが、おそらく李徴かと思います。戦って上達する経験に価値を見出す個人主義の悟空と、他人に評価されない・負けている状態に尊大な羞恥心がある全体主義の李徴。「どうしても勝ちたい」と思ってしまうのは李徴だからと推測しています。このようにチーターは全体主義の発想を持っています。

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