恋心は超グリーディ

普段質問されることを文章起こした場所です。ライブ配信やゲームイベントにまつわるものです。もしくは、たまに筆者の趣味の文章が交じります。

Nov 11, 2020 - gamerlogy philosophy

Authenticity オーセンティシティ とは

筆者がよく用いている表現である authenticity(オーセンティシティ)とは何かについて、一度文章に起こそうと思いました。

この世には、不自然なことやヤラセへの謎が多く転がっています。例えば仮にサッカーに詳しくもない若いタレントが大事な試合の席に呼ばれた際に、なぜサッカーに詳しい視聴者は違和感を覚えるのでしょう?なぜプロのゲーマーが使いもしないデバイスを宣伝をしていると「わざとらしい」という抵抗を感じるのでしょう?逆に、なぜ有名タレントが本心からゲームが好きだと「すごい」という評価になるのでしょう?この感情を説明できる概念が authenticity で、クリエイターや何らかの運営をされる方は既に暗に感じ取っているものかと存じます。

既に authenticity について解説した記事 もあったのですが、ゲーマー方向から見た説明は無かったため、便宜のためにここに残すことにしました。

背景

ここで述べる authenticity とは、「人がどのくらい本心から何かをしたいか」を表す度合です。

例えば貴方がそこそこ人気な絵師だとしましょう。「こういう絵が描きたい」という気持ちもある一方で、もっと人気になるには「今売れてる画風で行かなきゃ」という気持ちもあるでしょう。こんな時に、authenticity の有る画風・authenticity に従った意志とは、人気とは別に自分が描きたい画風を選ぶことです。

音楽家でも、DJでもVJでも、マンガ家でもライブ配信をするストリーマーでも、

  • 売れるためにコレをしなきゃ
  • 〇〇が求められているから従わなきゃ
  • 出資者・スポンサーの意向でコレをやらなきゃ

という状況があるでしょう。これは authenticity が低い状態です。他の表現では「ヤラセ感が高い」状態です。

自分の中の湧き上がる感情に対して、どれだけ一致しているかが authenticity です。Authenticity が高い状態とは、周りでどれだけ将棋派が多くても自分が好きだから囲碁をすることです。ただ必ずしも「反骨精神」ではありません。周りで流行っていることと自分が好きなことが一致していたら理想的で、authenticity も高いです。

Authenticity の主語・主体はそのクリエイターです。本人の心の中の度合を表しますが、ファンや視聴者にもそれが伝わってしまうものをイメージしています。ファンはクリエイターの authenticity に共鳴してファンになって行きます。これは結構広く適用できまして、例えばプロゲーマーの熱心な気持ちや本当にゲームが好きな姿を見て視聴者が応援したくなる現象にも使えます。逆にヤラセで商品を宣伝していればファンの心は離れます。

“代替メッセージ”
[最近はインフルエンサーマーケティングは一般的ですが、広告表示などについてルール議論が盛んです。なぜステマは効果があり、ヤラセは嫌がられるのでしょうか。画像は宣伝会議さん アドタイムズ から。]

哲学での解釈

Authenticity は哲学、特に徳倫理学などで活用されて来ました。凄くゲーマーに刺さる概念ですが、考えたのは20世紀の哲学者です。

注意頂きたいのは、貴方が何かを「したい」と思った時も、意味が2つあるという点です。例えば皆さんも「良い会社に就職したい」と思うことも有るでしょう。ごっちゃにするのは危険です。 消費者の行動についての研究記事 にて、アメリカ英語では authenticity は2つの意味で用いられていると述べています:

  • ① ふさわしいという意味
  • ② 本当にやりたいという意味

これは何かを「したい」という欲求を社会側・個人側から見た解釈で発生しています。例えば貴方が日本の小中学生だったとします。日本人なのだから習字や武道を「やるべき」だと保護者の方はおっしゃるでしょうし、貴方もどこかでそうすべきだと賛同しています。でも貴方は今ゲームを「やるべき」だと心が叫んでいます。前者のように「社会が求めている」という意味が①で、後者のように「自分が求めている」が②です。

もし貴方が本当に習字をやりたいとしても、それが「字が上手いと学校の先生に褒められるから」といった社会的利益に基づいている場合、それは①に当てはまります。皆さんも有名企業に就職したいとか、TOEIC を受けたいとか、良い大学に行きたいといった欲求は①であると分かっているはずです。

①の方の意味は哲学では 目的エトス や徳といった概念に近いです。①は運命・社会・DNAによってその人間に定められた最適な能力を表し、自分が何をしたいのかという感情とは独立だからです。そのため今回想定しているものとは異なります。(哲学書でも authenticity を「本来性」と訳した文献もありますが、それは字義的には①に近くなってしまうため、今回は不適です。)

“代替メッセージ”
[『機動戦士ガンダムSEED Destiny』では、人間は「遺伝子的に最適な仕事をしよう」というプロジェクトが描かれていました。でも遺伝子的に最適なことは、やりたいこととは限りません。画像は Amazon Prime Video から。]

今日述べる哲学で用いられている authenticity とは、② の意味(「その人が本当にやりたいと思う気持ち」)です。ご注意ください。特に、社会的要求と個人的欲求は異なります。例えば出資者・大事な顧客の意向で不本意な仕事をしなくてはいけない場合は、①には当てはまりますが今回の②とは異なりますので、ヤラセは authenticity を下げます。

反対意見

では哲学の世界ではどのように用いられて来たのでしょうか。経緯として authenticity とは、個人主義の極致でした。

画家・音楽家やあらゆる創作的活動を行う人達、中にはゲーマーも含まれますが、この人達の「自己実現」の究極形が authenticity であると考えられていました。
特に西洋の価値観は、長らく個人・自由を求めて来ました。貴族・宗教・社会などの既存の枠組みに従うのではなく、個人がやりたいことを追い求める意志:authenticity は新しくて美しいモノでした。

“代替メッセージ”
[モネ『印象・日の出』。1870-1880年くらいの印象派画家は、当時の偉い人から評価されなかった結果、自分たちのグループを作って技を追究していたところが authenticity 的です。画像は Wikipedia から。]

ですが20世紀後半。Authenticity はかなり非難されます。「自分がやりたいことを追求する気持ち」にはこんなツッコミが入りました:

  • 「みんな違ってみんないい」を手放しに肯定しただけじゃん
  • 本当に好きかは吟味されず、とにかく何か選択しただけで褒められてるだけじゃん
  • 自由な戯れに興じて、自己の美学に酔いしれてるだけじゃん

要するに authenticity は「ガキっぽい」という烙印を押されてしまいます。

それもそうですよね。例えばスマブラが好きすぎて家で一人でずっとプレイしている少年Xがおり、学業をおろそかにしているため保護者の方が「もっと勉強しなさい」と注意した時に、その少年Xが「俺は、コレがやりたいんだ!」と反論してきたらどうでしょう?Authenticity の発想に基づいた反論です。親子の間の確執はさておき、第三者から見たらその少年Xは「ガキっぽい言い訳だなあ」と感じることでしょう。せめてもっと「これからはスマブラの時代なんだ」とか「世界を目指してるんだ」といった社会的・権威的な言い訳をした方がまともです。このようなガキっぽさから authenticity は哲学の間でも一時期ボコボコにされていました。

果たして、好きなら何でも良いのでしょうか?上の少年Xのように、友達や保護者との繋がりを断ってダダをこねながらスマブラをする者が居て、貴方はファンになることは出来るでしょうか?更にはもしオンライン対戦で負けそうになったらすぐに切断するような人だったとしても、「スマブラが好きだから」と主張していたら他のスマブラ勢は共感することが出来るでしょうか?(出来ません。そのため次に続きます。)

最前線

この「ガキっぽい authenticity」の解釈に反論をした人達が居ます。今では authenticity とは、以下の両方の条件を満たしていなければならないと言われています:

  • A: 創造的で、自己決定的で、アイデンティティ(identity)的
  • B: 社会的であり、対話的

まず A. の条件はここまでの内容で説明できます。

一方 B. の「社会的でなければ authenticity ではない」という発想は一見矛盾しています。上では社会的要求は authenticity ではないと筆者は申し上げました。
ですが極端な例をお考え下さい。例えば上のスマブラが好きな孤独な少年Xも、スマブラがプレイできる環境は対戦相手という他者がいなければ成立しません。また、どこかで「スマブラをすると面白い」という概念を学校・ソーシャルメディア・動画から仕入れてきたはずです。好きなことを追究するとしても、同じ趣味を共有する人や、近いジャンルを楽しむ人達に迷惑をかける動きは、自分が好きなモノが成立する背景・前提を壊すことになります。

自分が好きなジャンルへの奉仕が同ジャンルの他者へメリットとして還元されることが authenticity のある動機の条件です。社会的で対話的です。これは人間の本質上、避けられない条件でしょう。他者へのデメリットとなるならそれはタダの「迷惑行動」となります。

こうした経緯の上で、現代では authenticity という単語はクリエイティブな活動の場で用いられています。そのため、何かの描写や説明で authenticity が用いられている場合は、この A. B. 双方の意味を持っていることを確認されてください。

“代替メッセージ”
[スマブラSPのオフ大会『ウメブラ』表彰式後の一幕。ゲーマーは競技者でもあり、クリエイターな側面も持ちます。部外者からは意外かもしれませんが、ゲーマーは社会的で対話的です。写真は @darimoko から。]

ゲーマーと authenticity

ここからは先人の議論ではなく筆者の意見です。

最初の問いに戻ります。筆者は、現代では authenticity が高いクリエイターが人気が出易いという主張をしています。Authenticity が高いと人を惹きつけますが、低いと抵抗を感じます。広く見れば、サッカーの試合に無知なMCが現れたり、バレーボールに無関係なアイドルが現れる場合、人が違和感を抱くことには何か共通点があるはずです。共通する要素とは authenticity の低さへの抵抗であると考えています。

ここは長くなってしまうので割愛しますが、テレビのみならず動画・ソーシャルメディアと比較して、ライブ配信は authenticity が伝わり易い世界であると考えています。双方向コミュニケーションが可能なため、人間がクリエイターと接する際により人間の本質的な部分に触れ易いからだと捉えています。逆に過去のメディアでは、authenticity はそこまで意識されていませんでした。そのため皆さんは:

  • テレビタレントには authenticity の有無がそもそも存在しない
  • ゲーマーは authenticity が大事

という概念をご存知のため、芸能人が本当にゲームが好きだと飛びついて評価するという社会の性質に、既に気がついているはずです。

ネットの世界、特にライブ配信では authenticity は伝わり易いです。既にご存知かと思いますが、スポンサーがついてわざとらしい宣伝をすればファンの心は離れがちですし、人気を削いでしまう要因になるからお気を付け下さい。昨今話題の「ステマ広告」が倫理的に駄目な理由も、authenticity を悪用したものであるからと説明できます。

炎上商法についても、嘗て筆者が述べた文章があり、類似する内容です:

最近はインターネットで数字の大きさが強調されます。一回だけで良いから数字を大きくするには、炎上させたり派手なことを言ったりした方が手っ取り早いです。しかし、

  • 「次回イベントを開いたときも見に来て欲しい」
  • 「このブランドを継続的に好きになって欲しい」

という様に、じっくり育てていく場合は、身の丈に合わない表現は逆効果です。全く文脈なく1回しか開催されずに業界のトップに君臨したイベントはありません。1回しか配信せずに最強となったストリーマーは居ません。
抽象的な表現になりますが、ゲーマーの社会ではブランドを育てるというのは、如何に authenticity の渦を生んでいくかだと考えています。これについて、過去に筆者は以下の文章で述べていますのでご参考にされてください:

このように、過去にも述べた筆者の主張の根幹には必ず authenticity が在ります。今後も述べると思いますので、その際はここへ立ち返って下さい。

逆に今まで「好きかどうかが大事」と理論に組み込んでご説明した際に、①「ふさわしい」の意味で用いられたり・数字至上主義で考えたり・「迷惑行動」の正当化に活用したりと、誤解される方も多かったです。今回の説明を経て、筆者はそうは思っていないということ・および基となっている哲学でもそうは考えられていないということを厳密にご理解下さい。

以上

今回は authenticity について、だいぶ粗い説明をしました。精度で言えば「Q. スマブラってなんですか?」「A. ゲーム」くらいの程度です。本当は 社会的アトミズム・道徳的相対主義・主観主義など、専門的な用語を用いて、チャールズテイラーのようなコミュニタリアンと呼ばれる人物の思想を引っ張りながら説明せねばならないのですが、大変なので今回はここまでです。

最近は、

  • 「若い子は TikTok や Instagram があるから、何万・何十万という “いいね” を貰うことに慣れている」
  • 「いまどき、ライブ配信の同時視聴者数、YouTube の再生回数、Twitter のフォロワー数という小さな数字では決して満足できない」

というご指摘を頂くことが多いのですが、それでも筆者は authenticity を信じています。過去に個人主義に関して筆者が記したように:

「他者からの評価」は万人に共通する美徳であり非常に魅力的なのですが、最終的には人は「自分がそれを好きかどうか」に行き着くと考えています。数字とは手段や結果であって、目的ではありません。今までここで記したゲームシーンに関する理論も、こういった視点に基づいたモノです。

補足:字義

英単語 “authenticity” は訳語が定まっていません。

英和辞典を引くと「信憑性」といった訳が出てきます。「信憑性」とは噂がウソかどうかの信頼度であって、authenticity とは全く関係のない意味です。今回想定している authenticity とは、ここまで述べたように「自分の湧き上がる感情に正直かどうか」を意味する方向です。

Authenticity の解説文では、たまに「真心」という訳もありますが、間違っていると考えます。一般的に、漢字圏の儒学的な価値観では他者へ優しくする「真心」の概念は自分に正直ではないからです。その「真心」は「忠」や「恕」の訳語として用いられますが、忠・恕は矯正して身につける社会的な徳です。正直でないものは authenticity ではありません。

一方、哲学では「ほんもの」という訳を当てた例もあります。これはかなり正しいと思っていますが、「ほんもの度合が高い」と言うと、なんか締まりが悪いです。先人に凄く申し訳ないですが、「ほんもの」という表現は使いません。

こういった背景をふまえて、筆者は authenticity をそのまま、もしくはカタカナで「オーセンティシティ」と記します。ただ、他の記事や解説をご覧になった際に、どうか訳語にひっぱられて authenticity を誤解されないようにしてください。