恋心は超グリーディ

普段質問されることを文章起こした場所です。ライブ配信やゲームイベントにまつわるものです。もしくは、たまに筆者の趣味の文章が交じります。

Jul 19, 2021 - esports essay

日本 Counter-Strike: XrayN 列伝

日本初のプロゲーマー達はどのように生まれ、何をプレイし、どのように生きていたのでしょうか?勝利に対して狂信的で、苛烈だったその実態を追いかけます。

ゲームをご存じない方は、競技的なゲームに対してこう投げかけるでしょう:

「Esports って言っても、対戦ゲームは流行り廃りがあって数年で終わっちゃうんでしょ?」

おっしゃる通りで、流行ったゲームは数多くあれども、単一のタイトルがずっと続くことは中々有りません。しかし、新作/新バージョンがリリースされても・異なるタイトルに引越しをしても、人の輪が維持されることは有ります。世界最高の勝負の場が、その人の輪に在るからです。

今回は、世界を目指して20年以上火を継ぐ、とある日本コミュニティの道のりを、特定の個人にスポットライトを当てて列伝形式で辿ります。日本の “Counter-Strike” 史の中でも、2001年以降、特に “CS1.6” の歴史となります。
今回は前編です。(後編もございます。)

事前にお断りです:

  • 分かりやすくするため、人名には「さん」を付けます。
  • 名称には “Counter-Strike” を用いますが、略称で “CS” が登場する場合もあります。
  • 過去事例を元に、筆者が話に意味を作りました。主観で道が出来ていますことをご了承下さい。

Counter-Strike とは

Counter-Strike とは何でしょう。

How to CS:GO …Counter-Strike というゲームのルール説明です。]

Counter-Strike はアメリカの Valve 社が提供する 5v5 で撃ち合う FPS です。元は “Half-Life” というゲームがあり、ユーザーがそれを改造した mod(追加コンテンツ)作品 “Half-Life: Counter-Strike” という名前で勝手にリリースされました。それを後に Valve 社が正式に買い取って、バージョンアップしつつ今に至ります。

最近 “Valorant” をされている方は、同ジャンル「5v5 タクティカルFPS」のためお聞き及びかと思います。寧ろ、本文は Valorant 競技シーンに繋がる道筋です。

そのため現代プレイヤーで「日本初のプロゲーミングチーム 4dN」という噂は聴いたことがあっても、何をしていたのか、どのように結成されたのか、ご存じない方もいらっしゃると思います。4dN は日本 Counter-Strike の歴史で、どのような役割を持ったのでしょうか?

一人のプレイヤーの運命をご覧に入れます。

XrayN 列伝

XrayN さんは、日本の FPS プレイヤーです。日本 Counter-Strike 史を取り上げるにあたり、XrayN さんを選ぶには特別な理由があります。それは、プレイヤーとしての実力だけではなく、潮流の中心に居た点からです。

“代替メッセージ”
[現代の XrayN さん( 元動画 )]

2000年3月頃 XrayN さんの高校時代。Irvine 市(米カリフォルニア州)にいらっしゃいました。現地には “PCバン” があり、Counter-Strike が大人気でした。この頃の ver は Beta6.0 シリーズです(註1)。ここにはブラウン管のデスクトップPCが40台有るというのに、プレイは順番待ちでした。オタクだけではなく、ムキムキ・ドレッド・派手な格好のヤツまで色々居る …それが当時 Counter-Strike をプレイするPCバンの姿でした。

そんな時代にふと XrayN さんが日本語で様子を検索しますと “カウンターストライク スクール” という情報ページがあることに気付きました(註2)。
カウンターストライク スクールは「チャート式」(註3)でした。ゲームの上達情報がしっかり・丁寧に書かれており、ほぼ全てのユーザーが学習のために活用していました。それに限らず、色んなウェブサイトへのリンクが貼ってありました。当時はクラン(チーム)を組んだならば、まずウェブサイトを作ります。対戦したい人は、そこの掲示板に対戦を申し込む方式でした。

カウンターストライク スクールの管理人 konto さんを中心に “JCCT” というオンライン大会が開催されており、日本ではその結果が全ての指標になっていると、在米中の XrayN さんにも分かりました。JCCT はプレイヤーが運営する、所謂「コミュニティ大会」(非企業大会)でした(註4)。

時は 2001年、Counter-Strike ver 1.3 前後(註5)。『JCCT 2』が開催されます。47チームから454名がエントリーし、JCCT は日本のコミュニティ大会としては他タイトルを含めても長らく最高参加者記録を保持します。現代で見ても400名超えの大会は記録的です。時間を割いて「優勝したい」と思うヤツが日本にこれだけ居たということですから、熱量は推して測れるモノがあります。
海外の1ユーザーの mod 出身タイトルである Counter-Strike が、世界のみならず日本でもこれほどの盛り上がりを見せました。

盛り上がりは道に繋がります。その大会で優勝したチーム “GoG” は日本代表として “World Cyber Games” (以下 WCG)に出場することとなります(註6)。高名な WCG はこの2001年にはじまり、Samsung 社リードのもと韓国:ソウルで開催され、複数のゲームタイトルで複数国の代表を集めるイベントとして毎年恒例になりました。“Esports” に教科書が生まれたならば「黎明期を象徴するイベント」と記されることでしょう。

“代替メッセージ”
[WCG の例。これは 2004 の写真。出典:WCG 2004 Auditorium。 WCG 2001 の写真はこちら

Counter-Strike については、各国1つの代表を送り、27の代表が世界中から集まりました。つまり今回は日本初の Counter-Strike 国家代表です。
他の代表には、現代でもお馴染みのアジア各国・ヨーロッパ各国に加え、ハンガリー・ブルガリア・南アフリカ・インドなど様々な地域が集い、4ブロックに別れて予選が行われました。

しかし日本代表はここで0勝6敗。同予選を突破したのはブラジル・オーストラリアの代表でした。

この全敗という結果を、インターネットを通じてアメリカで目撃した XrayN さんは納得が行きませんでした。勝利の女神は XyraN さんに囁きます:

「コレで良いのですか?」

と。良くない XyraN さんは日本へ帰国しました。

「日本を叩き直すために」

…そう2chで述べ、XrayN さんはネットで叩かれました。

勝利の女神に取り憑かれた者は、古今東西、心ゆくまで戦うこととなります。それがどんなゲームであろうと、プロであろうとなかろうと。

D2 の脅威

時は2002年。上述の JCCT が第4回を以て一旦終了となりました(註7)。

象徴的なトーナメントが去って後は、“NCT” (Necca CS Tournament) がその座を継ぎました。これは、「ネッカ秋葉原」というネットカフェで行われていたローカル大会です。2ヶ月に1度ほどの頻度で開かれていました(註8)。このネッカ秋葉原は大会の舞台でもあり、そこで活躍したプレイヤーが物語の中心となるため、まさしく聖地でした。

そこでは “Clan DeadlyDrive” 通称 “D2” というチームが台頭しました。BRZRKさん・KRVさんという Quake シリーズで活躍した両カリスマに加え、ENZAさんという象徴的プレイヤーを擁し、振り返ってみれば万全な布陣でした。D2 はこれを6連覇しました。

迎えた10月、「WCG2002 日本予選」が単独イベントとしてネッカ秋葉原にて開催されました。「これに勝てば日本代表」が分かっている大会に、我こそはという猛者たちが集います。

ここに、帰国した XrayN さんの姿がありました。“Chaos vs Order” というチームに所属し、優勝を目指しました。

「日本を叩き直す」

嘗て2chのコテハンでそう豪語した XrayN さんには実力があり、トーナメントを駆け上がります。迎えた決勝戦、XrayN さんの前に座った相手は、NCTを6連覇した D2 でした。

“代替メッセージ”
[当時の記事。 『電撃オンライン』 より]

…結果は D2 優勝。

日本代表の権利こそ D2 に与えられましたが、解説の Nao-K さんは XrayN さんについて「新しいヒーローの誕生」と述べています。XrayN さんはしっかり大舞台で結果を出しました。しかしながら「日本代表」という座をすぐに渡してくれるほど、勝利の女神は優しくはありませんでした。

その後、本番の WCG 2002。韓国:デジョンにて開催され、2年目となってスポンサーも大きく拡大。Coca Cola, Microsoft, Intel といった企業が参加。Counter-Strike にも36カ国の代表が集まりました。そこで日本を圧倒した D2 は、1勝1分2敗となり惜しくも予選敗退となりました。実はここで敗れた M19(ロシア), nerve(カナダ)という相手こそ、本大会の優勝・準優勝でした。そのため D2 も3位までは行ける可能性を秘めていたのですが、大会後に D2 はチーム解散となりました。

D2 解散後、 国内ではラダー形式のリーグが発足しました(註9)。XrayN さんはそこで別のチームに入り、優勝も出来ました。ただ、2003年初頭までは、国内環境は D2 亡き後の抗争でした。6連覇するような象徴的チームはおらず、少し求心力を失った状態にありました。

勝利と敗北。一つの世界大会が区切りを作り、プレイヤーのモチベを断ち切ります。XrayN さんを含め日本予選で敗れた者たち。そして WCG で敗れた日本代表。勝利の女神はまだ日本の誰にも微笑んではいませんでした。

二頭時代

2003年1月からは Counter-Strike のバージョンが 1.6 に突入し、後の10年のスタンダードとなるゲーム、略して “CS1.6” が形になります。ここから正式版は Steam からしかアップデートも出来なくなり、2002年までは名称も “Half-Life: Counter-Strike” でしたが、2003年からは世界的に “Counter-Strike” という単独名で呼ぶようになります。Counter-Strike にとって、重要なランドマークでした。

紫雲立つ機運の中、嘗てのD2メンバー:カリスマ KRV さん, そして象徴プレイヤー ENZA さんはチーム “Frozen Shadow” (略称 FZN.S)を結成し、最強を謳歌していました。
連覇・連勝の評判は、戦士たちを駆り立てます。勝負の渦が生まれ、プレイヤーたちが中心を・上を向き始めます:

  • 「こいつらが強いらしい」
  • 「Frozen Shadow を倒そう!」

そういった空気が CS1.6 プレイヤーたちを包み始めました。

そこで、もう片方のカリスマ BRZRK さんは、新進気鋭の XrayN さんを招集し、チーム : D2 復活の旗揚げを宣言しました。

この頃、 “KIA” というコミュニティ主催の階級制大会が現れました(註10)。こちらはオンライン大会で、2週間に1回というハイペースで開催されています。このハイペースぶりや階級分け制度は、現在の大会「宴」のモデルになっています。
※蛇足:この時代はダブルエリミネーション形式が人気ですが、試合は Bo1 でした。また、Map Ban/Pick はなく、回戦ごとに大会でマップが決まっていました。陣営はコイントスで選びます。

この KIA にて、新生 D2 と Frozen Shadow は強豪ライバルチームとして火花を散らすこととなります。

“代替メッセージ”
[注意:画像はイメージです。D2 vs Frozen Shadow の二頭時代を表した図。Frozen Shadow の画像は見つからなかったため筆者が勝手に作成しました。]

こうして両頭時代にやって来た2003年夏。 “Cyberathlete Professional League” (以下 CPL)が幕開けします。

CPL 自体は1997年から存在しています。米テキサス:ダラスでの大規模イベントで、LAN Party も兼ねていました。国際的な競技大会の機能を果たすようになったのは2000年からです。サイバーアスリートの祭典として、アメリカのスポーツ実業家が開始しました。「複数のゲームタイトルで各国代表を集めて戦わせる」という方式は WCG, ESWC などにも継がれ、esports のパイオニアと言われています。 日本で企業がイベントを開き、代表を CPL へ送るようになったのはこの CPL 2003 Summer からのことでした。

この CPL 2003 Sumemr 日本予選は、日本で初めて “e-sports” という名目で開催された大会かと思われます(註11)。
会場は LEDZONE。当時のナムコが経営していた「LANエンターテインメント実験店」です(註12)。大会の事前プレスリリースには:

決勝戦の様子は,一般のスポーツ番組のようにアナウンサーや解説者がついた生中継が公式サイトからストリーミング放送され,これにより「観戦する」といったコンピューターゲームの新しい楽しみ方を提案するという。

とあります。オンラインで予選が開かれ、Top4 のみオフライン会場で観戦する方式でした。…現代の我々の日常が如何に日常ではなかったかが伝わって来ます。勿論、この時代にプロなんかは居ません。

Counter-Strike が動く高価なPCを持ってて、必死で練習するモチベ有るヤツを5人集めるのも一苦労だった

と XrayN さんは語っています。

目新しさが押し寄せる天下分け目の一戦ですが、ここでチームのキーマンであった XrayN さんは精神的に本調子ではなく、ベストなパフォーマンスが出来ないということでチームを脱退。この大会は結果的に、KeNNy さん, paranoiac さんといったプレイヤーたちに委ねられました。決勝の相手は、やはり因縁の Frozen Shadow でした。
のちに伝説となる様々なプレイヤーの運命を巻き込んだ CPL 2003 Summer 日本予選。運命は勝利の女神が持つ天秤にかけられました。結果、D2 が競り勝ち、CPL 2003 Summer 本戦への切符を手に入れます。※(註13

こうして日本の激しい戦いを勝ち上がった D2 ですが、CPL では初戦敗退(註14)。本戦へ駒を進めることは叶いませんでした。

“代替メッセージ”
[CPL の例。これは CPL 2004 Winter の「競技区画」のもの。CPL はステージでは戦わず、LAN party 区画と競技区画に分かれており、試合は競技区画のフロアで行われる。 その他の写真はこちら

帰国後、D2 は糸が切れたように完全解散しました。

4dN

同年、他の Counter-Strike の大会も過ぎて12月。世間では阪神タイガースやフットボールアワーが優勝していました。チームを離れ戦線を離脱した XrayN さんにとっては、暫くは窓の外の出来事。「Counter-Strike で、世界」しか視界にない XrayN さんは、日本代表が負けていては何かスカッとしない日々が続いていました。

そんな冬、理不尽で我儘な勝利の女神は XrayN さんに囁きます:

「また戦線に戻りたくはありませんか?」

再び運命の糸が繋がる舞台へ。XrayN さんは休息から起き上がりました。しかし、Counter-Strike は独りでは願いを叶えられません。

クリスマスの日。XrayN さんは kei さんという方の自宅に集まり、上記の D2 メンバー:paranoiac さん等とボルドー1級ワインを開けて未来を語りました。

「SK Gaming 倒すか!」

と。“SK Gaming” とは、まさに2003年の WCG, CPL といった大会を全制覇していた世界のトップチームです。スウェーデンを中心に構成されており、esports の黎明期を代表するチームと言えるでしょう。日本代表が0勝であった大会を安定して優勝しているというのは、XrayN さんにとって目標であり・仇敵であり・超越者でした。実力的には食物連鎖のピラミッドで1段階違うほどの差がありましたが、それでも日本の XrayN さんは「勝ちたい」と不遜にも感じました。

その勢いのまま XrayN さんは目ぼしき戦士に檄を送り、4dimensioN:略して 4dN を結成しました。メンバーはこちらです:

  • XrayN(元D2)
  • paranoiac(元D2)
  • KeNNy(元D2)
  • ENZA(元D2→元Frozen Shadow)
  • Penz
  • 補欠: iceberg

“4dN” …このチームは、ここまでに登場した日本の英雄たちを集結させたチームです。D2, Frozen Shadow から中心に、「世界で活躍するチームをつくる」の名目の下、若い憂国の志士たちが並びました。このチームはただ単に強かっただけではありません。これから申し上げる運命の中心にありました。この 4dN こそ、勝利の女神に、運命の糸が結ばれた交差点でした。

kei さん宅にブラウン管のデスクトップを6台並べ、東京外であった ENZA さん・Penz さんは住み込みを開始しました。その他の東京組は平日は自宅からネットで繋いで練習し、金曜夜に kei さんのところに合流する日々が始まります。必然的なゲーミングハウス形式の始動です。

ただ、この時点で 2ch しか存在しなかった日本のゲーム社交界では、起き上がった XrayN さんの評価は惨憺たるものでした。4レスに1度は XrayN さん叩きだったという伝説があります。

「どうせ勝てない」

といった評価で、挑戦する者を否定していました。これについては想像がつく方も多いと思います。が、「勝利」を決意した軍団は意にも介さず鍛錬を続けました。

2004年。4dN は上述の階級制オンライン大会:KIA に出まくりました。そして隙間を見つけては中国・韓国のチームへ挑戦状を叩きつけ、オンラインで練習試合を繰り返しました。

CPL 2004 Summer 日本予選は、言うまでも無く優勝します。
4dN の目標は日本を制することではありません。一切浮かれず、いざ日本代表だと決まれば現地ダラスに数週間早く渡航し、武者修行を開始します。20歳くらいのアマチュア軍団5人がブラウン管パソコンを持って渡米する姿は、狂気にしか見えないでしょう。勝利の女神に取り憑かれ、渇望する何かの為に非理性的な行動を厭わない状態にありました。

“代替メッセージ”
[当時の 4dN。現代では余り見かけない殺気を放っている。写真は XrayN さん提供。]

その狂気は、一つ形となって実を結びます。前哨戦 “Pre-CPL” (於:Lanmadness)にて、ブラジル代表の g3x に勝利を収めました。しかも Bo3 形式の試合でです(註15)。
また、CPL 2004 Summer 本番でも 4dimensioN は待望の1勝を挙げています。g3x のようにCPL本戦8位(出場国は27)とは行かないまでも、昨年の日本代表が初戦敗退したのに対し、着実な手応えを感じられる遠征内容でした(註16)。

“代替メッセージ”
[CPL 2004 での写真。画像は こちらのYossyさんのインタビューから

XrayN さんはこの時、

一番差があったのはグレネードだった

と語っています。海外チームとの差はエイムといったミクロ的運動スキルではなく、グレネード・フラッシュバンといった情報戦略の差だったということです。4dN は現地での修行を通じてそこを習得しました。そのため、帰国して練習した相手の日本クランも「4dNと戦う時はフラッシュバンに苦戦した」と言われています。

この年末、一区切りということで一旦 4dN は解散します。…しかし、そうは女神が許しませんでした。

日本初のプロ化

2005年初頭。スポンサーの PSYMIN 社が現れ、4dNは復活のお呼びがかかります。

こうして 4dN.PSYMIN が発表されます。これは、日本初のプロゲーマーの誕生でもありました(註17)。この時のメンバーは以下です:

  • XrayN
  • KeNNy
  • iceBerg
  • paranoiac
  • Tak

オーナー代表には Buddha さん。様々な経歴がありますが、上述の Frozen Shadow のプレイヤーでした。現在 Valorant の Vision Strikers でご存知の方も多いでしょう(註18)。マネージャーには上述の解説:Nao-K さん。このように相成ります。

“代替メッセージ”
[4dN.PSYMIN ロゴ。当時は日本では余りチームロゴを作成することは一般的ではなかった。]

勝利の女神が、日本の戦士たちを再び前線へ引っ張り出しました。D2 と Frozen Shadow という宿命のライバルから、オールジャパンの運命として、「日本初のプロゲーマー」は鳴り物入りで登場しました。

※蛇足:ちなみに。日本初のプロゲーマーと言えば諸説あります。同年の4月、SIGUMA さんがプロ化しています。詳細は他ソースにお任せしますが、実際にプレスリリースは SIGUMA さんが先に発表されています。ただ、4dN はスポンサーのお陰で同年3月から活動を開始できているため、活動実態が先に有りました。これはどちらが先か不明瞭ではありますが、本文を読まれた方は「諸説有るのはこういう経緯か」とお見知り置き下さい。

2005年

2005年は完全なるプロ期間です。

4dN は、スポンサーのおかげで2月に韓国へブートキャンプを決行しました。
2月というのは、韓国で “WEG” という招待制大会を開いていたからです。そこで、4dN は WEG 出場チームのスパーリングパートナーとして相手をして貰うために、大会に許可を取って韓国へ渡りました(註19)。

当時の世界ランク5位くらいには勝てた。

そう XrayN さんは語っています。血気盛んな様子を見るとブートキャンプは自然にも見えますが、現代の我々が冷静に考えてみても、出場する大会の無い外国にメンバー一同で遠征するのは狂気です。
実はこのブートキャンプは動画が残っています:

上の動画 , つづきはこちら 。韓国での 4dN ブートキャンプの様子。]

このブートキャンプの勢いのまま春、 “ACON5” 日本予選ではしっかり 4dN が優勝します(註20)。
尤も、ACON5 本戦の西安では世界の強豪を相手に思うような活躍は出来ませんでした。XrayN さんはここを振り返って「練習がまだ足りなかった」と述べていますが、プロ化の成果は着実に蓄積されて行きます。

その後、毎年恒例の CPL 2005 Summer 日本予選。大阪のネットカフェで複数日に亘って開催されたこの大会では、4dN はまた順当に優勝し、日本代表の権利を得ます(註21)。

CPL 2005 Summer 日本予選の映像 。「圧勝圧勝」と言っているのが XrayN さん。相手の AXG には noppo さんが在籍。]

そして2年連続の本戦は、恒例の米テキサス州:ダラス。世界32の代表が、CS1.6 のために集まっていました。

ここで 4dN は数々の強豪を倒します。

[CPL 2003-2005 をまとめた ファンメイドの映像 。CS1.6 のみならず、Halo2, Painkiller, Day of Defeat, F.E.A.R. などのタイトルが総合的に集まる LAN party となっていた。]

結果、4dN は 9位にランクインしました。おそらく日本 Counter-Strike 史上でも稀有の好成績です(註22)。
上位には SK Gaming, Evil Geniuses, Fnatic が入り、4dN は g3x と同着、mibr よりも上位となりました。4dN は日本での不敗神話に加え、この CPL 2005 Summer での好成績から、今でも日本では FPS の伝説として語られています。

“代替メッセージ”
[CPL 2005 順位。錚々たるチーム名が並ぶ。4dN は9位。 こちらの Liquipedia から

はじめて、勝利の女神は XrayN さんに見返りを与えたと言えるでしょう。4dN の関係者とファンにとって本当に喜ばしい、祝福すべき結果でした。

しかし、この結果に選手自身は手放しで喜びはしませんでした。2005 とは、大会 “ESWC” が台頭した年です。この年、ESWC と CPL Summer の日程が被ってしまいました。そこで海外の強豪が ESWC 出席を選んでしまい、自分たちが9位でも納得が行きませんでした。

そのため、日本へ帰国しても尚コミュニティ開催の KIA に出続けました。更には、4dN自身でも “MXP” という大会を主催で開催しました。熱のあるプレイヤーコミュニティには、こうしたプロも交えた盛り上がりが必ず有ります。XrayN さんは当時のテレビドキュメンタリー『プロゲーマーになりたい若者たち』にて:

「練習相手が居ない」

といった悩み・悲しみを語っています。こういう時代に、プロゲーマーは自ら後進を育て、ライバルとなって貰うべく、舵をとって主導する役を担います。現代でも忘れたくない姿です。

ここまで、4dN を結成した2004年からプロ化の2005年まで、メンバーは走り続けていました。悩み・葛藤は現代に伝わっていませんが、勝利を目指した者たちは常に寝苦しい夜を過ごしたことでしょう。現代で仮に時間と資金があったとして、これほど貪欲に挑戦するプレイヤーたちはどれほどいらっしゃるでしょうか?国内では満足せず、出場する大会の無い国にまで乗り込む気概は有る方はどれほどいらっしゃるでしょうか?

更にこの年の 4dN は “CPL World Tour” というイベントがあり、招待されて中国大会へ出場しました。プロ化したメリットが活き、遠征で忙しい限りでした。しかしながら、この帰国後に遂に起こるべくして問題が発生します。

CS:S の影

歴史的な立ち位置として2005年は、CS:S と CS1.6 の分断の始まりでもありました。つまり、ユーザーの間で人気があった旧来の CS1.6 (Counter-Strike ver 1.6)と、新発売でゲーム会社が推している最新作品 CS:S(Counter-Strike: Source)での対立です。コミュニティに人気があった古い作品と最新作で分断が発生する、ということは昔はよくありました。最新作が時代の肌感に合わないと、ユーザーはプレイせずに古い作品に定住しちゃいます。その結果、ゲーム会社も損をするのですが、プレイヤー同士も友達が引き裂かれてしまって苦しくなります。(現代は最新作が人気がなくなる問題は、esports 化によって解決されていると筆者は感じています。)(註23
ここまでに見た ACON5, CPL は大会本営の判断で CS1.6 で行いましたが、日本コミュニティではこの決定には否定的な論調でした。日本とは「ゲーム会社が推す最新作 CS:S でやるべき」派が多いものです。

その対立は遂に形になります。この秋、WCG 本営は、CS1.6 ではなく、CS:S を種目採用しました。これは日本予選にも反映されます。西洋圏では一般にゲーマーの意見を尊重するところが有るのですが、アジア色の強い WCG は CS:S 開催となりました。

“代替メッセージ”
[WCG 2005 日本予選は東京ゲームショウ内で行われた。画像は 4Gamer より

4dN は CPL World Tour で直前まで北京に行っていたため、CS1.6 しかプレイしておらず、大変なこととなりました。例えて言うなれば、それまでバスケットボールの練習をしていたのに、ある日突然出場予定の大会がハンドボールに変わったようなものです。ある程度能力が継承されますが、他にもっとやり込んでいる人たちが居るのです。特にチーム連携の側面があるため、5人揃って練習した時間がモノを言う戦場では致命的なお知らせでした。

※蛇足:2007年には版元である Valve 社が CS:S を推すべく、アメリカテレビ局(DirecTV)と共に “CGS” という大会を開催しました。種目は勿論 CS:Sであり、その間アメリカの CS1.6 トッププレイヤーたちが CS:S に移行し、ただ大会は上手く行かず2年の開催に留まって終了しました。その結果、出場者たちも全員 CS1.6 に戻って来ましたが、全然勝てませんでした。半年経っても差が埋まらないため引退する者も出ました。 ― CS1.6 と CS:S の分断は非常に深刻な影響をプレイヤー・ファンに与えました。

それでも全てを押しのけて、4dN は日本を制して本戦行きを決めました。
WCG 2005 本戦はシンガポール。ブロック予選は全勝のみが突破できるという厳しい条件の中、4dN はかの Virtus.pro(ロシアを象徴する有名チーム)にのみ敗れ(註24)、予選突破はならず。

「残念ですね、Virtus.pro 以外には勝てましたのに…」

そう勝利の女神が嘲笑うかのような予選に阻まれ、4dN の2005年は閉幕しました。

その後

そして、この大会を最後に、XrayN さんは 4dN メンバーから戦力外通告となります。その公開はそっけないものでした。2006年2月、当時のチームのウェブサイトの IRC チャンネルに、ただ一文:

 Xray out. Noppo join.

と書かれました(註25)。

こうして、4dN を呼びかけた司令塔は、4dN としてのキャリアを引退しました。2ch での

「日本を叩き直すために」

から始まり、D2 と Frozen Shadow のライバルシーンを演出し、4dN 結成という実体を日本にもたらした XrayN さんですが、必ずチームとの戦線には終わりが来ます。

読まれた方は、XrayN さんの情熱と行動に対し、勝利の女神は充分な見返りを与えたと思われるでしょうか?1つの試合に2つのチームがあれば、勝者はいつだって必ず1チームです。大会に30チームが居ても、優勝は1チーム。世界中に数多く有るチームの中から、4dN へ与えられた勝利の栄光はいかがなものだったでしょう?裁きの天秤が与えた結果に、どういった意味があったのでしょうか?

「コレで良かったのですか?」

皆様が XrayN さんだったとしたら、この戦績に納得されますでしょうか?

…これで XrayN さんと Counter-Strike との繋がりが断たれた訳ではありませんが、後編では運命の 4dN へ代わりに加入した noppo さんという人物へ視点を移しましょう。

以上

今回は XrayN さんにお話をうかがって作成しました。本当は筆者が気になってうかがったのですが、凄く良い歴史だと思ったため記録して残したいと思いました。
本文は、日本初のプロゲーマー設立や、その生き様を追いました。孤高で、勝利へ狂信的であった姿が記憶頂けましたら幸いです。この情熱は、現代の競技シーンにも繋がっています。タイトルが変わっても、人の輪や価値観が続くこの感覚を共有出来ましたら幸いです。省略したイベントがあったり、筆者が意味を追加した部分がありますので、引用する際はご注意下さい。

細かくなりますが、タイトルは「列伝」ではなく「本紀」で良いと思うのですが、分かり易さを優先して列伝にしました。

この直近の続編である noppo 列伝は以下です:

後編:『日本 Counter-Strike: noppo 列伝』はこちらから

また、この頃の XrayN さんの話は 『TGN27 元プロゲーマー集合!実はあんときこんなだった!』 という2011年のトークショーでも語られています。ご参考になさってください。

前編最後となりましたが、当時の貴重な記録が残っていたためかなり楽になりました。Negitaku さん, Impress さん, 4Gamer さん, ITMedia さん, ファミ通さんをはじめ、長く記録頂いた皆様本当にありがとうございます。

なお、各年代についてesports全体の流れはどうであったかについては、 『主観 Esports の歴史』 もご参照下さい。


  1. Counter-Strike β版 バージョン一覧  ↩︎

  2. カウンターストライク スクールに関する痕跡 Negitaku より  ↩︎

  3. 便宜上、有名で標準的な参考書である「チャート式」を挙げています。本当は『漢文早覚え速答法』と言いたいところですが知名度に難が有ると思い断念。 ↩︎

  4. JCCT 2 に関する記事 4Gamer より  ↩︎

  5. Counter-Strike バージョン一覧  ↩︎

  6. WCG 2001 の記録 Liquipedia より 。この年は AoE2, FIFA, StarCraft, Unreal Tournament, Quake3 でも競技が行われました。現代の方も、WCG が毎年どのゲームタイトルで競技を行っていたかを辿ると esports の変遷が見て取れます。 ↩︎

  7. JCCT 4 終了 4Gamer より  ↩︎

  8. ネッカ秋葉原は今は亡き聖地です。廣瀬無線電機ビルにありました。「ネッカ秋葉」にまつわる当時の伝説的名言があり、今も語り継がれています。2020年に Stylishnoob さんも引用するほどの名言です。 ↩︎

  9. ラダーリーグ JCLL 結果 GN. が XrayN さん所属チーム。 ↩︎

  10. KIA についての記事 Negitaku より 。 ↩︎

  11. 日本初の “esports” 情報提供は完全に 個人的な Yossy さん  ↩︎

  12. CPL 2003 Summer 日本予選 4Gamer より  ↩︎

  13. この時の決勝に関しては こうした視点 もあります。ご参考までに。 ↩︎

  14. CPL 2003 Summer 本戦 4Gamer より  ↩︎

  15. Pre-CPL 4dN vs g3x 結果 Negitaku より …当時は Twitter もライブ配信もスマホもありませんから、前哨戦の情報を日本から入手することに苦戦した様子が伝わって来ます。 ↩︎

  16. CPL 2004 トーナメント表 Webarchives  ↩︎

  17. 4dN プロ化に関する記事 4Gamer より  ↩︎

  18. 現代の Buddha さん マイナビニュース 綾本さんのインタビュー記事 ↩︎

  19. WEG2005中のブートキャンプについて Negitaku より , また WEG運営 についてはこちら ↩︎

  20. ACON5 日本予選 4Gamer より 。岐阜県にて開催され、当時としては賞金が凄く良かった(50万円+GPU+マザボ)と言われています。 ↩︎

  21. CPL 2005 日本予選の様子は、昨年にヤスオさんによってアップされています。 [Report]CPL2005 Summer! 第1回(画像/動画あり)  ↩︎

  22. CPL 2005 本戦結果 。 ↩︎

  23. なお、XrayN さんは2005年当時の日本では、まだ “esports” という単語はネタ扱い(余り真剣には捉えられず、どちらかと言えば笑いのタネ)されたと語っていました。 ↩︎

  24. Virtus.pro は2003設立。ロシア・旧ソ連圏を代表するに限らず、esports に興味があれば必ず目にするチームです。現在では世界有数の富豪であるウスマノフ氏のホールディングスが巨額出資。同氏は天然ガス・冶金に多大な影響力が有り、アーセナルFC・国際フェンシング連盟のドンでもあります。 ↩︎

  25. XrayN さん脱退の告知 Negitaku より  ↩︎