恋心は超グリーディ

普段質問されることを文章起こした場所です。ライブ配信やゲームイベントにまつわるものです。もしくは、たまに筆者の趣味の文章が交じります。

Jul 20, 2021 - esports essay

日本 Counter-Strike: noppo 列伝

「とんでもないPlayが出てますよ今」をFPSの実況中継で聴いたことが有る方も多いでしょう。この文言は何故有名であり、どのような思いが込められていたのでしょう。

世に語られる説明よりも、少しだけ踏み込んでお伝えいたします。そのために、一人のプレイヤーの道のりを辿りましょう。

なお、今回は前半『日本 Counter-Strike: XrayN 列伝』の続編となっています。Counter-Strike(CS1.6)とはどういうゲームであり、ここまでどういった経緯があったかは前編を御覧ください。

前編 : 『日本 Counter-Strike: XrayN 列伝』

また、前編同様に以下注意書きです:

  • 分かりやすくするため、人名には「さん」を付けます。
  • 名称には “Counter-Strike” を用いますが、略称で “CS” が登場する場合もあります。
  • 過去事例を元に、筆者が話に意味を作りました。主観で道が出来ていますことをご了承下さい。

noppo 列伝

noppo さんは悲劇のプレイヤーでした。

“代替メッセージ”
[現代の noppo さん、 元動画はこちら

ゲームへの入りは “CS-NEO”。これは当時のナムコ社が「アーケードでプレイできる Counter-Strike」として展開したものです。そこからPC版の本家 Counter-Strike を開始しますが、これは嚢中の錐。実力を認められ、2005年に大阪所在のプロチーム AXG (Aggressive Gene) に加入。
AXG は、本格的な「ゲーミングハウス」方式を取った日本初のクラン(チーム)でした。noppo さん自身は東京の人でしたが、ここで移住します。

AXG のリーダー:Hac さんは2005年のテレビドキュメンタリー『プロゲーマーになりたい若者たち』でのインタビューにて、

「賞金が欲しいからとかなじゃなくて」

と語っています。プロゲーマーというのはお金が欲しくてやっているのではない。兎に角ゲームで勝ちたいという渇望があり、それを実現するためにプロをやっているのだ、という情熱を説明しているシーンです。勝利の女神は、誰に対しても平等に、夢だけは与えていました。

AXG の皆はゲーミングハウスに泊まり込み、ゲームの練習をする傍ら、5人で同じネットカフェでバイトしたりティッシュ配りをしたり、そのネットカフェで Counter-Strike を布教したりと、必死でした(註1)。

ただ、これは勝負の世界。どれだけ夢を抱いて努力をしようとも、掲げた目標が達成出来るとは限りません。

AXG は前編にて述べた ACON5 や WCG 2005 の日本予選に参加し、チーム 4dN の目の前で活躍して実力を見せます。ただ、国内無敗の 4dN の前に、日本代表権を勝ち取ることは出来ませんでした。その後、AXG は音楽性の違いから解散してしまいます。5人というチームであれば、何かしらの不一致は一定確率で起きてしまうものでした。noppo さんは東京へ戻ります。

そこに手が差し伸べられます。2006年に noppo さんは 4dN の新メンバーとして加入します。
4dN は前編で詳細に述べましたが、日本初のプロゲーミングチームであり、日本を席巻したのみならず世界でも実績を挙げた、ファン憧れのチームです。noppo さんが当時日本最強クラスと認められた証でもありました。

しかしながら、加入してすぐ、悲運が降りかかります。4dN が無期限活動停止となりました(註2)。

最大の要因は「CPL 日本予選がなくなってしまったから」と振り返って評価されることが一般的です。…実は CPL の日本予選は今後行われないというニュースが舞い込んだばかりの時期でした。これまで日本の Counter-Strike シーンの主動機であった大会が失われることは、大会だけの問題に留まりません。4dN 活動停止へ波及しました。

※蛇足:更に翌 2007 年を最後に本家 CPL は閉鎖。「競合が多かった」と当時の CPL 本営は述べています(註3)。こうして、世界に権威ある大会は ESWC, WCG の二頭体制に移り、日本からの出場権の有る WCG が選手の標的となります。

WCG2006

古巣は解散し、新天地は活動停止。それでも noppo さんはマウスを壁にかける気は有りませんでした。

WCG 2006 日本予選に noppo さんは出場します。秋葉原UDXで開催されていました。

この年、日本の版図は大きく変わっています。4dN や AXG といったプロチームが消滅し、選手のディアスポラが起きて再編成されていました。代表的なチームは以下です:

  • PARANOID : noppo さん(元AXG), KeNNy さん(元4dN)らが所属
  • Cynthia : 元AXG中心に結成
  • Ownz : XENQ さんらが所属

“代替メッセージ”
[当時の記事 ITMedia より

新しくなったのは選手の情勢だけではありません。大会方式についても同様です。当時としては前進的に大会のライブ配信が行われました。当時の記事には(註4)Yahoo でのライブ配信が「接続できる」という喜びが記されており、筆者としては時代を感じます。他にも、液晶モニタ利用も挙げられます。液晶モニタを用いた大会は当時ようやく現れていました。WCG 2006 日本予選はその一つです。XENQ さんはインタビューにて:

FPSの大会で機材が液晶だったことは過去何度もありましたが、それと比べて今回のディスプレイは反応が良く、残像もほとんど目立たなかったですね

と答えています。つまり、当時の FPS プレイヤーとしては PC はリフレッシュレートの高いブラウン管(CRT)が一般的であり、液晶は性能が悪いイメージがありました。今回は BenQ 社の全面バックアップで実現しているとあります。これが当時の、新時代への試みでした。

選手的・技術的・マインド的にも、現代への幕開けとなった2006年。
表八句的な大会で日本代表権を見事獲得した noppo さんは、チームと共に WCG 本戦の地、イタリア:Monza へ飛びました(註5)。

イタリアでの大会前日、noppo さんのチームメイトが試合前にホテルを出て食い物を買いに出ると、ホテルの目の前で普通にスリに遭いました。ニセ警官に騙され、財布を盗られてしまいました。海外遠征の洗礼を浴びますが、こうした悲運もパフォーマンスに影響するものです。予選ブロックでは1勝4敗に留まり、本戦出場はなりませんでした。

スウェーデン

2007年。残念ながら、日本では何もなさそうでした。
上述の通り CPL 日本予選は既に無く、頼みの綱の WCG も Counter-Strike は日本予選が行われないとのニュースが舞い込みました。

  • 「盛り上がってないから」
  • 「日本でも企業が大会をやってくれれば」

どのタイトルでも、去りゆくゲーマーは引退する理由を並べることだけは非常に得意です。悪魔のようにこれらの言葉がネットに並び、他プレイヤーを誘惑します。それでも、勝利に魅せられたプレイヤーにだけ女神の声が聞こえます:

「まだ勝利を知りたくありませんか?」

機会に恵まれない noppo さんは、ここでスウェーデンへ行くことにしました。

スウェーデンというのは古来から esports 強豪国でした。当時世界で連勝していた SK Gaming はスウェーデンでメンバー構成されたチームです。丁度その頃台頭し今も現役である強豪:Fnatic, Ninjas in Pyjamas もスウェーデンを中心としたチームです。noppo さんは先ずとりあえずスウェーデンへ留学することを決めました。

“代替メッセージ”
[当時のスウェーデンの様子。左は LAN Party : Dreamhack 会場。右は Dreamhack に行くために荷物を運ぶ人たち。写真は noppo さん提供。]

かと言って、Twitter も Facebook も無い当時、留学専門サイトで探しても良い条件は有りませんでした。そこで、mixi でスウェーデンコミュニティを眺めているとホームステイ募集を発見し、これに飛び込むことにします。ただ、これは mixi でスウェーデン引越しの目星をつけたに過ぎず、肝心の Counter-Strike については完全なる無です。現地でプレイヤー活動が出来る保証はあったのでしょうか?当時のインタビューにて noppo さんは:

「目にとまる存在になれる自信があるんで、大丈夫。」

という驚異的な自信を語っています(註6)。

noppo さんは留学しつつ、目論見通り AfterLife というチームへ所属しました(註7)。滞在にはハードルもありましたが、根性で解決して Counter-Strike を本場でひたすら訓練しました。

“代替メッセージ”
[スウェーデンでの noppo さん]

しかし、ゲームをするために無理を押し過ぎて、最後は体調を崩して帰国することとなります。

Speeder 結成

時は2008年になっていました。無謀な留学と体を張った訓練を経て帰国した noppo さんは、紛うことなき日本最強となっていました。

その後、ネットで出会った新人の Sion さんというプレイヤーと “Speeder” というチームを結成します。 この2人に上述の XENQ さんを加え、4dN 亡き後の時代を牽引したメンバーに新しい風を入れたオールジャパンチームとなりました。

“代替メッセージ”
[Team Speeder のロゴ]

初陣は ESWC 2008 日本予選でした。
ESWC 自体の名は、前編にも登場しました。世界的大会です。しかし今まで日本代表を送ったことはありませんでした。ここで出来たばかりの組織 “JESPA” が ESWC の運営パートナーとなり、この日本予選が実現しました(註8)。

五反田で開催された日本予選には、事前のオンライン予選を勝ち抜いた4チームが集まりました。所謂「オフライン決勝」という形式です。観客には200-300人が来たとあります。大会には今もお馴染みの浜村さんの姿がありました。

“代替メッセージ”
[ESWC 2008 日本予選の様子。 当時の記事 GAME Watch さんから

後世が振り返って「第一次 esports ブーム」とも呼ばれるこの時期。盛り上がりを見せた日本予選を、圧倒的な実力で Speeder は突破しました。(註9

悲運

ESWC 2008 本戦は米カリフォルニア州:サンノゼです。スカパー社から取材もありました。

ここでいざ出国となって大問題が発覚します。「所属選手がアメリカ遠征行けない!」という事態が2件発生し、補充もままならないまま1人欠けた4名で成田空港を出ました。そして急遽現地で 日本人プレイヤーを補充して ESWC に参戦しました。

ESWC 本戦。世界から Counter-Strike で29代表が集まり、ブロック予選に分けられました。日本代表の Speeder はギリシャ代表に勝ち、ドイツに惜敗。そして高名な Fnatic(スウェーデン代表)に惨敗し、ギリギリ予選突破はなりませんでした。本当にここをベストメンバーで行えていれば、日本のFPS史は変わっていたかもしれない、と感じる結果表です。

“代替メッセージ”
[ESWC 2008 の画像。大会ロゴと、手前に逆光ですが noppo さん。写真 noppo さん提供。]

CPL もなく、WCG もなく。やっと巡って来た ESWC というチャンスでベストメンバーが揃わず。

noppo さんは、勝利の女神から袖で払われていたのでしょうか?

決して noppo さんはただ座して手をこまねいて待っていた訳ではありません。腕を磨き、ゲーム外でも行動し、そうして大会に漕ぎ着けていました。それでも、勝負の世界では努力に見合った幸運が舞い込まないものでした。

次いで “IEF 2008” という大会では、noppo さんは Speeder ではなく一時的な即席メンバーで日本代表として渡航しました。(註10
IEF は参加チームこそ毎年8など比較的少数でしたが、大規模なセットが売りの国家バックアップイベントでした。この年は武漢での開催。しかし、チームメイトがカップ麺を買って食べておなかを壊してしまいました。

[IEF 2008 の様子。 元ツイート 。写真には noppo さん, barusa さん等の姿がある。別ゲーに出場したENZAさんも。]

結局、帰国しても noppo さんや Speeder には全然日本に練習相手がいませんでした。

練習相手というのは、同じくらいのスキルが有り、何よりも同様に世界を目指すモチベーションのある5人組でないといけません。当時は social media なんて言うモノはありませんが、ウェブサイトとして作られている試合募集ページにも人が居る訳がありませんでした。そのため noppo さんは自ら IRC に張り付いて、「対戦相手募集」と書き込む人が来たらすかさず返答していました。可能性のある相手を他の人にみすみす取られないためです。
実力を持ち、スウェーデン留学まで決行した日本を代表するプレイヤーが、練習するためだけでもネットに張り付かないといけないという状態は、どんなゲーマーが想像しても涙するでしょう。勝利の女神は余りにむごい試練を与えていました。

このように悲壮の練習を行い、迎えた “ESWC Asia Masters of Cheonan”。チーム Speeder は、寄せ集めメンバーながらも日本予選を突破しました。しかし、本戦は勝ち上がることが出来ませんでした。(註11

追い打ちをかけるように、帰国後に ESWC は倒産したとのニュースが舞い込み、来年から果たして ESWC は開催されるのか、全く分からない状態になりました。
ヨーロッパ選手のように、ESWC が無くなっても ESL や Dreamhack といった他大会が興隆していることが見えていれば別ですが、日本プレイヤーにとっては国際戦に挑戦する道がなければ全ての可能性が断たれたと言っても過言ではありません。

モチベのあるプレイヤーが周りにいなかったことが悲しかった。

と noppo さんは述べています。実際、大会が無いのに鍛錬を続ける方が異常だと筆者は思います。この状況で言えば、良くとも年1しか大規模大会はありません。noppo さんが伝説と呼ばれている理由には、こうした時代でもひたすら練習を続けていたところにあります。

臥薪嘗胆

年が明けて2010年、日本には新しいモノの機運が高まっていました。アニメでは『ハートキャッチプリキュア!』が CHANGE をテーマとしており、大河ドラマ『龍馬伝』は新しい日本の夜明けを謳っていました。すると、FPS でもちょうど “AVA” や “Sudden Attack” といった「無料FPS」と呼ばれる競合作品が多数台頭して来ます。2011年には AVA は後楽園ホールに客を満員にして大会を行い、SunSister や DeToNator といったチームが登場。時代の潮流がここにありました。

また、数年先にリリースされた “Counter-Strike Online” 略して CSO も本格的な盛り上がりを見せていました。CSO とは、NEXON 社が本家 CS1.6 を土台に改変を加え、日本向けに展開した別タイトルです。ジャパンチャンピオンシップも開催され(註12)、そこには YamatoN さん, OooDa さんといった現代の我々にもお馴染みの名前がありました。後に Laz さん, Neth さんといった現代現役の選手も CSO から頭角を現します。
さらにこの後には “SPECIAL FORCE 2” というタイトルも現れます。Zerost さん, Stylishnoob さん, Spygea さん, Ceros さんといった現代でもタイトルを問わず著名なプレイヤーが活躍しています。

“代替メッセージ”
[画像は こちらのブログ『しおいんですけど』から 。2011年に AVA が後楽園ホールで行った大会。尋常ではない人気がうかがえる。]

ゲームをされている方であればご想像頂きたいのですが、もしご自身のプレイしているタイトルが3年間国内でオフライン大会が無く、海外への出場権も得られず、それでいて他の類似タイトルがいつも国内でホールを貸し切って大会を開いていたら、どのように感じるでしょうか?愛する魂のタイトルに専念を続けること可能でしょうか?

「貴方は、その本当に好きなタイトルで、ずっと勝利を目指しつつけることが出来ますか?」

…対戦ゲーマーであれば、誰もが一度はこのように勝利の女神に試されたことが有ると思います。多くの人は、流行っている別タイトルの方へ引っ越してしまいます。特に他のゲームへ移っても活躍が見込める場合は尚更です。日本一・世界一を目指す競技者であれば、「両立」ということも無いでしょう。自分が好きな魂のゲームから他タイトルへ浮気するくらいであれば、いっそのことゲームをまるごと引退しよう、という自決的な精神を持つ方もいらっしゃいます。残ってプレイし続ける人間は最も稀な人種だと言えるでしょう。

本文の主題である CS1.6 はいかがだったでしょう。2010年頃、日本では Survival of the Fittest (SOF) という定例オンライン大会が開かれ続けました。各回 20-30 チームが参加していました(註13)。こちらでも OooDa さんが実況しており、参加選手にも現代の皆さまがご存知のお名前がチラホラ有るかもしれません。
しかし逆を言えば、国際大会への道は断たれ、この国内大会しか Counter-Strike を競う舞台は有りませんでした。

noppo さんはこの年に台湾の大学に語学留学します。これは「中国語やっとこう」という社会的にごもっともな理由でしたが、地域が近いため日本とゲームプレイを行うことが可能でした。(註5

2011年には、Speeder でもメンバーが一人 inactive となり、替えのメンバーを探すこととなります。逆境の中でも共同設立者の Sion さんは諦めず、夏には営業交渉してスポンサーを獲得します。勝利を目指す限り、Speeder の活動は続きました。しかし、国際大会が無いため年末、チームスポンサーも終了。
この年には、Counter-Strike 待望の正式続編である “Counter-Strike: Global Offensive”、略して CS:GO もリリースされました。しかし、過去に CS:S の際には何年にも及ぶコミュニティ分断が発生したため(註14)、今回も再び「パブリッシャーは CS:GO を推すがプレイヤーは CS1.6 のままなだろう」懸念が支配的でした。スポンサーにとっても、どちらに乗るのか、リスクのある時期でした。実際にこの時期は CS1.6 をプレイする方が多数派であり、本文も CS1.6 で続いた競技シーンを追いかけます。

類似タイトルの台頭。CS1.6 と CS:GO の対立不安。そしてスポンサー喪失。noppo さんにとっては、すかんぴんで2012年に突入します。

プロチーム入りから7年、初の日本代表入りから6年、スウェーデン留学から5年が既に経っていました。

それでもモチベの火を絶やすことは無く、noppo さんは当時活躍していた5人の志士を新たに集結させ、活動を再開します(メンバーは Sion さんに加え、STABA さん, rappy さん, barusa さん)。そのチームが、なんとドイツのチーム “myRevenge” に迎えられることとなりました(註15)。

“代替メッセージ”
[myRevenge ロゴ。画像は GosuGamers より

また、myRevenge 主導で日本でも大会が主催されることとなり、ポジティブなニュースが日本 CS1.6 界に続きます。

noppo さんの根強いプレイヤー活動が、ようやく幸運を引き寄せ、その芽が生え始めました。

とんでもないPlay

その機運は更にチャンスを手繰り寄せます。

“Asia e-Sports Cup 2012” という国際大会が東京ゲームショウで開催されることとなりました。これは言葉以上のスタッフ労力が伝わって来る告知です。

嘗ての 4dN にてキャプテンであった KeNNy さんは 当時のブログ で:

「東京ゲームショウで開催されるAsia e-Sports Cup 2012でまさかのCS1.6が採用!」

「まさかの」と記しています。業界の方はご存知かと思いますが、東京ゲームショウでブースを出して大会を開くというのは想像を超える予算がかかります。しかし CyAC 社がこれを主導し(註16)、Alienware 社のスポンサーも付け、アジア4カ国から代表も呼び寄せて試合を実現しました。
大会は、開かれるだけでもプレイヤーにはありがたいものです。昨今のパンデミックでも感じますが、プレイヤーにとっては「この魂のゲームで腕を磨く理由」が何でも良いから得られるだけで、本当に嬉しいモノなのです。

noppo さんは今回日本開催ということもあり、何事も無くフルメンバーで無事出場。日本予選を突破し、本戦に漕ぎ着けます。

“代替メッセージ”
[Asia e-Sports Cup 2012:東京ゲームショウでの現地写真。写真は noppo さん提供。]

迎えた東京ゲームショウでの本戦、各国の予選を勝ち抜いたアジア勢は決して弱くはありませんでした。特に強力なシンガポール代表がダブルエリミネーション形式の決勝へ勝ち上がります。noppo さん率いる myRevenge 一同も決勝戦まで辿り着きます。

決勝戦はルール上有り得る最長試合数に及びました。この最終戦(最終マップ)が伝説の試合となります:

noppo さんのとんでもないPlay 。実況 Ooodaさん, 解説 QoofooRiNさん]

日本FPS史上おそらく最も有名なシーンですが、ご存じない方のために。この壁抜きでキルをしているのが noppo さんです。所謂「壁抜き」で4キルを獲得し、このラウンドはエース(1人で相手チームを全滅させる)を達成します。実戦でのエースですら珍しい光景ですが、それにもまさって壁抜きの精度が目立ちました。
この衝撃のプレイイングに解説の方が絶叫したセリフが:

「とんでもないPlayが出てますよ今」

です。
上の映像は便宜の為に抜かれた相手プレイヤーを編集で表示しているに過ぎず、noppo さん視点では壁しか見えていません。このゲームはリアル系FPSですから現実と対比が可能なのですが、これは壁の向こうの見えていない敵を4人も撃ち抜いたということです。なぜ相手の位置が分かったのでしょうか?後年にこのように説明しています:

外やられる⇒でもシャッター来ない⇒タワー上行くと予想⇒壁抜いたら案の定倒せた⇒タワー上いるということはタワー設置⇒抜いて倒す⇒C4拾うと予想⇒音聞いて倒す⇒ラストC4取りに行くはず⇒倒しに行く。

)この一見不可能なプレーから日本勢は流れに乗り、優勝を果たしました。Counter-Strike 史上、初の国際戦優勝でした。

“代替メッセージ”
[noppo さん(最高身長)が着ている服は ESWC 2008 の際に大会スポンサーの adidas 社が日本代表に支給したもの。2012年当時はチームでユニフォームを着る文化は殆ど無い。写真は noppo さん提供。 こちらの記事もご参照あれ:Negitaku 。]

「オフライン決勝で最終試合、日本勢の初優勝」という扇情的な状況で発生した伝説的なプレーは、世界的にも話題になりました。HLTV(註17)で拡散され、世界のフラグムービー年間2位を獲得しています。
こうした熱狂的なシャウトに加えて、印象的な試合内容であったため、現代でも「とんでもないPlayが出てますよ今」は使用されます。この背景には、本文で述べたような長い試練がありました。

道のりを振り返って見ると、運命の交差点であったチーム 4dN。その最後のメンバーとなった noppo さん。そこから海外特訓し、日本で再スタート。幸運に恵まれない中でも鍛錬を続け、ようやく掴んだチャンスで結果を出しました。

勝利の女神は、noppo さんに報いたと言えるでしょうか?

その後

noppo さんの選手としての現役活動はこのあと2年続きますが、今回の列伝はここで綴じます。

当時 CS1.6 は、上述の CS:GO の間とで揺れ、どっちつかずの状態にありました。ゲームがアップデートされ、大本営の Valve 社による Major 構想が打ち出されるまで、コミュニティの軸足は CS1.6 に残ります。そのため、ヨーロッパの CS1.6 プレイヤーはオンラインポーカーで生計を立てる選手も多く現れます。(註18

その後、世界の CS1.6 シーンは CS:GO へ移行し、選手や魂は引き継がれます。それは日本でも同様でした。話がとんでしまいますが、2020年には “Valorant” が発売され、こちらでは CS:GO にて活躍していた選手が多くいらっしゃいます。そして、今でも CS:GO は世界でトップクラスに興隆している esports タイトルとして健在です。

前編から含めて、プレイヤーたちは2000年頃のカウンターストライクスクールから始まり、WCG, CPL といった大会への参加権を懸けて戦って来ました。その熱気は 4dN へ引き継がれ、noppo さんや Speeder へとバトンタッチされます。やがて2010年以降、他の FPS タイトルが台頭してプレイヤーの合流や分離が行われながらも、今の CS:GO や Valorant の競技シーンに魂は引き継がれています。賞金だとか人口だとか視聴者数なのではなく、こうした熱気と価値観の継承がコミュニティなのであり、競技シーンなのだと、筆者は考えています。

以上

本文は noppo さんにお話をうかがって作成しました。前編と同様ですが、本当は筆者が気になってうかがったのですが、凄く良い歴史だと思ったため記録して残したいと思いました。省略したイベントがあったり、筆者が意味を追加した部分がありますので、引用する際はご注意下さい。

こちらもタイトルは「列伝」ではなく「本紀」で良いと思うのですが、分かり易さを優先して「列伝」としました。

なお、各年代についてesports全体の流れはどうであったかについては、 『主観 Esports の歴史』 もご参照下さい。

今回活躍した伝説たちが出演する “esports ファイトクラブ” (XrayN さん, XENQ さん, noppo さん)がこちらにございます:

esports ファイトクラブ 第一回

既にご覧になった方も多いと思いますが、今回の noppo さんの経緯を知ってからご覧になるとより共感するところも大きいでしょう。特に最終回で、(勿論演技ですが)「プロになって有名になって良い思いしたい」という若者ゲーマーを諭す noppo さんの説得力は上がるのではないでしょうか?

最後に謝辞です。前編でも申し上げましたが、当時の貴重な記録が残っていたためかなり楽になりました。Negitaku さん, Impress さん, 4Gamer さん, ITMedia さん, ファミ通さんをはじめ、長く記録頂いたメディアの皆様本当にありがとうございました。


  1. noppo さんはこの時代、このネットカフェで WCG の PV だけがひたすら流れており、おかしくなりそうだったと述べています。 ↩︎

  2. 4dN 活動停止 Negitaku より  ↩︎

  3. CPL 閉鎖のニュース  ↩︎

  4. WCG 2006 日本予選レポート 4Gamer より  ↩︎

  5. WCG は日本予選および現地の日本勢誘導をしていたのが GrooveSync 松井さんだったため、noppo さんは初めて知り合ったと言っています。当時のインタビュー・レポート記事も松井さんによるものは多いです。 ↩︎ ↩︎

  6. 当時のインタビュー negitaku より 。また、留学への経緯は 後年の対談より  ↩︎

  7. noppo さんはこの留学中に Dreamhack へ寄りました。Dreamhack 参加をする者たちが長時間列車に多数乗って皆でブラウン管を抱えている光景は壮観だったと述べています。 ↩︎

  8. JESPA とは「日本eスポーツ協会設立準備委員会」の略。 当時の記事 GAME Watch より 。なお、JESPA とは 2015-2018まで存在していた JeSPA「日本eスポーツ協会」の前身のような関係。後者の JeSPA は JeSU「日本eスポーツ連合」に合流する形で解散。 ↩︎

  9. 筆者は、2013年以前は “esports” と言った場合は日本でも英語でも Counter-Strike や StarCraft など限られたゲームを指していたと指摘しています。日本ではこの時期に Counter-Strike を中心に「esports をプッシュしよう」という動きがありました。現代の JeSU さんは、ゲーム会社と一緒にあらゆるゲームをプッシュしているという点で区別が必要です。 ↩︎

  10. IEF 2008 Liquipedia より 。当時の 記事がねとらぼさん で残っている。記事は松井さん。 ↩︎

  11. ESWC Asia Masters of Cheonan 結果 Negitaku より  ↩︎

  12. CSOJC 2011 Final 4Gamer より  ↩︎

  13. SOF 記事例 Netigaku より 。動画は こちら  ↩︎

  14. 前編参照。 ↩︎

  15. myRevenge 加入 Negitaku より  ↩︎

  16. CyAC 社はプレイヤーの動向に敏感です。現代では国内を代表する LAN Party “C4LAN” を開催しています。C4LAN に関しての インタビュー記事はこちら(ファミ通さん)  ↩︎

  17. HLTV とは、2002年から続く Counter-Strike シリーズプレイヤー向け情報フォーラム。大会情報からプレイヤーランキングまで様々なコンテンツが議論される。月のアクティブユニークユーザーは400万人。2020年にはスポーツベッティングの Better Collective 社に買収される。 ↩︎

  18. オンラインポーカーで生計を立てる Counter-Strike プレイヤーについて 参考 Yossy さんと Buddha さんインタビュー  ↩︎