競技シーンはゲーマーの間でよく話題になる概念です。基本的にはやり込んでいて腕前が高い人達の活躍する界隈を指します。しかし現代では競技シーンがゲーム運営のものなのか消費者のものなのか、間で揺れていると感じています。
背景
ゲーム会社が運営する公式大会で何かしらミスらない年はないでしょう。
大会でのミスというのは例えば運営がボロボロで大会のエクスペリエンスが悪かったり、直前でルールや参加条件が変更になったり、試合中に起きた問題の裁定が不平等だったりすることです。
これはPvPのゲームタイトルを本気で取り組んでいる人間が居て、そのタイトルにアイデンティティを感じているファンが居て、その上で大会を人間が運営しており、市場経済が存在するならば確率的にやむを得ないでしょう。
こうして公式大会でミスが起きたとき、こうした不満の声が挙がります:
- 「これほど大きな企業が運営をミスるなんてあり得ない!信頼が失墜する!」
- 「競技シーンをテキトーにするとユーザーが離れてしまう!」
- 「選手を大事にして欲しい」
しかし、こういった意見が噴出するのはなぜでしょうか?公式大会でミスが起きることはここまで深刻な問題でしょうか?これはゲーマー・消費者・ファンが持っている「公式大会はちゃんと運営されるべき」という願望に過ぎないのではないでしょうか?ゲーム会社は国内大会だけでも何百万円〜何億円というおカネを使って、業務時間も使って本気で準備をしているのに、小さなミスで叩かれるのは全く以て運営の気持ちとユーザーの要望が合いません。
競技シーンは誰にメリットがあり、なぜ運営されるのでしょう?本文は私にとって競技シーン/esportsとは何かを定義し、その精神性について考えるものです。 この直前のブログ の続きとしての立ち位置ですので、「運営 vs. 消費者」という視点でゲームの競技シーンを捉えます。
競技シーンとは何か
“ゲームの競技シーン” とは一般的に esports と呼ばれるものです。そのゲームタイトル文化圏の最強決定戦があり、その戦いと文化的に地続きな人たちの営みです。私はこのように見ています。
[競技シーンの例。出典:
The International 2018
]
新しく esports 産業に入って来られたビジネスマンからよく聴く誤解として:
- 「esports というものがあって、その中にいくつかのゲームがある」
- 裏を返せば「esports の枠組みの中になければ、そのタイトルに大会は無い」
というものがあります。例えば「ストリートファイターは esports だけどスマブラはesportsじゃない」といった考え方です。
スマブラって大会あるの?任天堂がesportsに消極的だからesportsじゃないんだと思ってた
といった発言はけっこうよく聴いて来ました。しかしこの発想には実態と矛盾があります(ゲーマーにとっては当然だと思いますが定義のためにしっかり述べます)。『ストリートファイター』にも『スマブラ』にも大会は有りますし、大会に出ないエンジョイ勢も存在するからです。
実際は各種ゲームタイトルがあり、その中にもし競技シーンがあった場合、慣習的にそれが「esports」と呼ばれるという状態です。PvP のタイトルでも競技シーンがないこともありますし、基本的に一人用のゲームでも競技シーンが存在することがあります(例:BEMANI PRO LEAGUE など)。競技のためオンリーのタイトルや、エンジョイのためオンリーのタイトルが有るわけではありません。
[Esports の分類についてよくある誤解 図解]
そのため、一つのタイトルの中に複数の競技シーンが存在することがあります。例えば “ポケモン” (= 『ユナイト』や『GO』ではなく『スカーレット・バイオレット』のようなシリーズ)にはシングルバトルとダブルバトルという別々の対戦ルールがあり、別々のシーンを形成しています。
Esports という単語は現在では多義的に用いられるため(例えばストリーマーを指すことがある)、本文ではより厳密に「競技シーン」という単語で統一します。
競技シーンの境界線
ならば競技シーンはどこまでを呼ぶのでしょう?
上のように捉えると、どんなゲームでも競技シーンを持ちうるということになります。実際そうです。ゲームタイトルで競技シーンを区切らないならば、競技シーンとは何であり、競技シーンでないものはどこからなのでしょう?その境界線を考えたいです。
思考実験してみます。ゲーム会社の運営するプロリーグに出場している選手は競技シーンに含まれるでしょう。最強だからであり、競技の頂点に位置するからです。
では、ランクマでそこそこ程度に頑張っている人は競技シーンに含まれるでしょうか?例えば『スプラトゥーン3』でS+まで行った私はスプラトゥーンの競技シーンに含まれるでしょうか?最近の『ストリートファイター6』のランクマッチで MASTER まで到達した人は競技シーンと言えるでしょうか?
ゲーマーからするとビミョーなラインだと思います。各種ランクマッチで頑張っているだけの人(= 競技的な大会で活躍しているわけではない人)は「そのタイトルの競技シーンのファン」と言うことはできますが、競技シーンに「含まれるか?」と訊かれたら余り答えは出せません。直観的に言って「含まない」と答える回答が多いでしょう。
また、競技シーンには様々なスタッフがいます。もちろん試合を運営するスタッフもいますし、スポンサー企業の方もいらっしゃるでしょう。こうした方々は競技シーンに含まれるでしょうか?更にはキャスターもいらっしゃいます。例えば大和さんは『Apex Legends』の競技シーンに「含まれるのか?」と言うと、これまたビミョーなところです。
そこで私の視点としては、競技シーンというのは狭義にとらえると最も競技的な大会(= 実力のみで選ばれた最強決定戦のことで、エキシビション的なものは除く)に出場している選手たちは確実に競技シーンの一員です。そして、グレーゾーンとしてそういった選手らに関係する人たちが存在しています。強豪の他選手あったり、プロのスパーリング相手であったり、運営やキャスターといった方々です。
競技シーンの構成員には、グレーゾーンに立つ人間であっても、地続きな価値観があります。
そのため、競技シーンにはハッキリとした境界線は引けないのですが、最強プレイヤーを中心として、グラデーション的に様々な人物が関わる社会のことです。また、競技シーンに直接は関わっていなくとも、ファンをやっている方も多くいらっしゃるでしょう。
[競技シーン/esports にはグラデーション的な境界線があることの図解]
これが私の競技シーンの捉え方です。純粋な勝負の存在と、それにまつわる人間を基準に捉えています。戦っている人がいるか、その実態があるかどうかが重要です。
逆に、ゲーム会社が銘打っているか、権威機関に認定されているかどうか、スポーツとしての倫理的規範があるかどうか等、ラベル的・形式的な定義には基づいていません。また、視聴者数や参加者数、フォロワー数や賞金額といった数値的なものでも定義していません。
運営と消費者
競技シーンはこれまた繊細な立ち位置にあります。「運営 vs. 消費者」のバランスがあるからです。今回競技シーンを人間に基づいて定義しましたので、それに関わる人間を「運営 vs. 消費者」の対比で検討しましょう。ここは前のブログの延長線上にあります。
競技シーンを構成する最強のゲーマーというのは、ほぼ全員が〈消費者〉出身です。いや、消費者じゃなかった事例がありましょうか。所謂「コア層」です。
そうでありながら、現代では最強のゲーマーはゲーム会社が主催する公式大会または定期的な公式リーグに出場して活動しています。こういった形のプロゲーマーは、ゲーム会社と直接契約があったり、ゲーム会社と出場契約をしたチームに入ったりして活動をしています。例えば『Leaegue of Legends』では LJL という日本プロリーグがあり、そこに出場できるチームはゲーム会社とコミュニケーションがあって決まっています。プロ選手と呼ばれる人は全員この出場チームに所属しています(註1)。するとプロゲーマーは〈消費者〉でありながら、ほぼ〈運営〉のような立場で動くことになります。
たまにそうではないゲームもあります。例えば『スマブラ』はゲーム会社がほぼ関与しません。大会と呼ばれるものは消費者が多数開催しており、プレイヤーはそこに出場して実力を証明する方式です。競技シーンは事実上〈消費者〉のみで進行されています。
多くのゲームタイトル文化圏はゲーム会社の運営する公式大会と、消費者の扱う非公式大会や、その他の雑多な活動(例:ライブ配信・動画・対戦会・オフ会)の混交でできているでしょう。任意のPvPゲームタイトルAに関して「A 公式大会」と Google 検索してヒットし、 Tonamel 内部で「A」と検索してヒットするならば、そのタイトルは公式・非公式による大会の混交です。
そのため競技シーンと言えば〈運営〉としっかり紐づいたプロゲーマーでありながら、彼らと関わってグラデーション的に競技シーンを構成するプレイヤーたちは〈消費者〉ということが多々あります。
[VALORANT の公式大会に出場する FNATIC ロスター。画像は
VCT 公式チャンネルより
より。プロゲーマーは本来は〈消費者〉でありながら、やがてファンや視聴者からすれば〈運営〉としての役割を帯びることになります。]
問題提起
競技シーンは運営立場のプレイヤーと、消費者立場のプレイヤーによって構成されることをここまで申し上げました。その上でたずねたいです。競技シーンは誰にメリットがあり、なぜ維持されているのでしょうか?
要するに競技シーンは〈運営〉のためのものでしょうか?〈消費者〉のためのものでしょうか?
よく言われるのは、
競技シーンは盛り上がっているから宣伝になる
という説です。熱狂的なファンの方々はこれを信じていることも多いでしょう。これは実態に合うでしょうか?
競技シーンの実態
ゲームの運営にとって、果たして競技シーンを維持するメリットは有るのでしょうか?競技シーンが盛り上がると宣伝になるのでしょうか?
前提として、私の主張では「コア層は悪」ではありません。「競技シーンがあること自体がよくなくて、ガチ勢がいるとユーザーが離れちゃう」という思考には否定的です。この辺りは この直前のブログ で述べました。
しかしながら、運営が競技シーンに注力すると運営は目的達成をできるでしょうか?運営の根源的な目的はゲームが売れることのはずです。
実態として、どれだけ盛り上がっても競技シーンはゲームタイトル全体から見ると小さな一部であると私は考えています。ゲームタイトルは PvP のものであれば何百万人〜1千万人強がプレイするものであり、大会の同時視聴者数が10万人行ったとしても売上に対してごく少数でしょう。そして大会の同時視聴者数が10万人行くゲームタイトルは地球上でもわずかです。そしてそれらを視聴する消費者はすでにゲームをプレイしている購買層である可能性が高く、それならば公式大会を運営する予算でテレビCMを出した方がリーチはできます。
そのため、競技シーンがゲームを売ること自体に直接貢献するとは私は思っていません。いやそもそも、もしゲームを売ることと競技シーンが自明に結びついていたならば、2010年以前から任天堂さんやBlizzardさんも公式大会をバシバシ開いていたはずなのです。実際はそうではありませんでした(= 現代は当時よりも遥かに積極的に開いています)。
数字的にも歴史としても、「競技シーン = 売上」ではなかったと私は主張します。しかし現代ではゲーム会社が公式大会を開くところが多いです。これには二次的なメリットが存在しているからだと私は思います。例えば競技シーンを維持することげゲーム会社にはこうしたメリットがあります:
- アクティブユーザー数を維持できる
- そのゲームのインフルエンサーを常にコントロールできる
- 消費者の中のリーダーに真っ先に情報を届けることができ、ポジティブな空気を先導して貰える
- 競技シーンに焦点をあてることで、このゲームをやっている人はこんなにカッコ良いんだ!とポジティブなイメージをつけられる
- 消費者が旧タイトルばっかりプレイする状況を防げる(= 『Counter-Strike: Source』が発売された後もみんなが旧作の『Counter-Strike 1.6』 をプレイし続ける状況を防げる)
こうしたエンゲージメント的メリットがいま競技シーンを維持するゲーム会社(= 運営)の動機であると私は捉えています。
競技シーンは運営のためか
というわけで競技シーンはゲーム会社(= 運営)にとってメリットがあるため、ゲーム会社のためのモノでしょうか?
現代では「競技シーンは運営のためのもの」という信念はある程度信じられていますが、実態としてその結果生じている歪みのようなものがありますので、ここで少し述べます。
例えば今ゲーム会社はesports/プロゲーマーに健全さを求めています。服装やマナーには品行方正が求められ、ダメな発言で厳しく罰せられます。競技シーンが運営のためのものならば、この傾向は加速するでしょう。
しかしゲーマーにとっての選択肢はそれだけではないはずです。より不健全でアングラであっても良いはずです。今多くの競技シーンが健全に流れつつあり、これに違和感を持つゲーマーが居ることは、ゲーマーならば実感するところでしょう。
[アングラな競技シーンの事例。ここでは分かりやすくするため、観戦する視点の動画を埋め込みました。 動画URL ]
また、先程箇条書きで挙げたメリットが欲しければ、ゲーム会社はべつに競技シーンを維持しなくても良いことになります。現代では違う選択肢があるからです。ストリーマーです。
ゲーム会社がストリーマーを起用してもポジティブなイメージは発信されますし、新規タイトルにユーザーを流入・維持できます。何千万円をかけて公式大会を開催し、腕前の高いプロゲーマーを活用するならば、最初から同じ予算でストリーマーに案件をお願いした方が確実です。(これについて私は少し懐疑的ですが、現状業界の認識としてはこうです。)
ゲーム会社が純粋に腕前で選手を選抜する競技シーンよりも、ストリーマー向けイベントを開く時代は加速する可能性があります。私は特にストリーマーの価値を推進する仕事をしている者ですから、そのメリットも充分に信じています。ただ一方で私は競技シーンの価値も求めており、競技シーンは競技シーンとして純粋なまま残すべきだと考えています。
そのため、
- 「競技シーンはゲーム会社にメリットが有る!」
- 「現代ではゲーム会社が競技シーンを運営してくれるのが当たり前!」
と消費者が主張する風潮は現在もありますが、それは競技シーンからアングラさを排除する未来や、ストリーマーを重点的に起用して競技シーンを弱める未来も内包していると私は考えています。
競技シーンが定着した経緯
私が本文で申し上げたいのは、競技シーンは歴史上は〈消費者〉が〈運営〉に押し付けてきたものであるという視点です。競技シーンは消費者、つまりゲーマーが勝ち取った世界であると考えています。詳細はかつて自分の歴史観を記したブログで述べていますが:
2010年以前はゲーム会社の運営する大会は少数派でした。「公式大会」と言えばパッケージ型コンソールゲームで発売前に行うことが一般的でした。プロモーションだったからです。
翻って現代日本でコンソールゲームでも公式大会を開いているのは殆どが esports 文脈です。JeSU 関連はいずれもそうでしょう。JeSU 以前から開催されていたものでは、『ストリートファイター4』から始まった CPT があります。CPT も元は北米で CS:GO Major Championships の形式を追って形成されました(註2)。そして CS:GO Major Championships や CPT を構成していたのは世界各地の消費者主催コミュニティ大会です。
その esports 文脈はどこから来たかと言うと、元はWCG, ESWCなどの00年代に海外で発展した esports イベントからです。これはゲーム会社ではない第三者企業が Starcraft, Counter-Strike などのタイトルで大会を運営していました。WCG運営も企業ではありますが、ゲーム会社ではないと捉えるとここでは〈消費者〉の一種になります。その文化圏から派生した DotA 系 mod(=〈消費者〉による活動)の開発者が League of Legends を発表して盛り上がり、今の様々な esports 文脈に繋がっていると私は上記ブログで申し上げています。
このパートはだいぶ角が立つ内容だと思いますが、私は自分の視点ではこのように捉えています。個人の意見です。
これらを見ると、esports 紀元前のタイトルは〈消費者〉が競技シーンを活発化させて今に繋げて来ました。競技シーンというものは、元々価値があるかどうかは自明ではなく、ゲーム会社は必ずしも積極的ではありませんでした。〈消費者〉が長く活動したことで存在意義を広めてきたものです。一方で〈消費者〉にとっては競技シーンの価値は自明に存在するのです。2020年代もしくは令和と呼ばれる現代が2010年以前とどう異なるかと言うと、〈消費者〉が強くなった時代だという点でしょう。
※ これには当てはまらない例外もあります。00年代に公式大会を開いていたPCゲームタイトルや(註3)、90年代に公式大会が存在したゲームです(註4)。これについては註釈をご覧ください。
提案
私は競技シーンとは〈消費者〉にとって価値があるもので、〈消費者〉が長い年月をかけて〈運営〉に対して価値を認めさせてきたものであると思っています。
本文の提案としては、競技シーンは〈消費者〉がはじめたものであり、基本的には〈消費者〉のためのモノという意識を持っていて欲しいということです。
時代はいま潮目にあります。2010年の人間が2020年の公式大会を見ると、信じられないほど質が高くユーザーに寄り添ったものになっているでしょう。それでも「ゲームの運営が競技シーンも取り仕切って当たり前でしょ」と思っていると危険であると考えています。この発想は、時代のどこかで潮目が変わって〈運営〉が競技シーンを維持しない方向へ移行するリスクを抱えているからです。
そのため常に〈運営〉に〈消費者〉が圧力をかけ続けなければなりません。
運営批判は危険
その上で、〈消費者〉の圧力というのは公式大会への文句では意味がありません。文句というのは常にされる側が主体になるためです。
はじめに例として申し上げた質問に立ち返りますと、公式大会が何かをミスった時に文句を言っても、主導権は常に〈運営〉にあり、〈消費者〉に主導権がやって来るわけではないと私は考えています。本文に従って厳密に申し上げますと、ミスった時に文句を言うのは「競技シーンは〈運営〉のモノである」という主張に乗っかる場合であり、〈消費者〉のモノだと思うならば余り効果はありません。むしろ “運営に依存する消費者体質” を加速させてしまう危険性を持っているでしょう。
〈消費者〉が競技シーンを守るためにやるべきことは:
- 普段からプレイヤー活動をツイートする(新Xで投稿する)
- ライブ配信をしてコミュニティと対話する
- 動画を作って情報を発信する
- 自分たちが集まって楽しそうにしていることを見せ続ける
こうした行動だと思います。勿論大会を開いても良いですし、ここは各タイトルのストリーマーや動画投稿者、そうした消費者文化圏全てが一体となって脅威になり得ます。
現代でゲーム会社がユーザーガイドラインを出したり、コミュニティ大会サポートプログラムを提示しているのは、まさしく〈消費者〉が〈運営〉に圧力をかけ続けた結果だと本文では捉えます。
そしてこれらは、そんなに強くもない下位〜中堅のゲーマーが行うことが重要です。上で述べましたがプロゲーマーは強くなればなるほど公式大会での活躍が増え、徐々に運営としての役割を持つからです。よくファンが「上に立つ人間は〜〜な使命がある」といったことを言いますが、それは結局 “運営に依存する消費者体質” となってしまうため危険です。
私はかつてのブログで「弱者の可視化」について述べたことがあります。それと同じことを推奨します。
個々のゲーマーは活動すればするほど〈消費者〉を脱して〈運営〉に寄る傾向があります。そのため、そんなに強くないゲーマーが常に新たに意志を持って発信するようになる新陳代謝が必要です。その新陳代謝をもたらすものが競技シーンであり、消費者社会を自走させる機関であると私は思っています。
[競技シーンはフォロワー数や知名度を問わず勝った者が自ずと注目される舞台です。photo by
https://twitter.com/sakyooooou
,
URL
]
私の視点は〈運営〉(= ゲーム会社)を弱くすべきという意味ではありません。いまプロゲーミングチームはかなり大きな予算が動いており、プレイヤーに大きな恩恵がありますが、これは公式大会やリーグが安定して稼働しているからです。「これを崩せ」という意図はありません。私の主張は公式大会がなにかミスったときに、〈消費者〉側に強い文化圏があることが最大の利益になるという主張です。
かといって公式大会が大きくミスった時に「叩くな」というわけでもありません。時間やおカネの面で不利益を被った被害者(= 消費者)はある程度の声を挙げることは可能だと思っています。ただ、関係のない野次馬が「信頼が失墜する!」と述べるのは、本文の理論としてはよろしくないですし、実態としても余り解決策にはならないのではないかと考えています。
以上
今日は「競技シーンは消費者のもので、そのために動き続けなければいけない」という主張を述べました。
私の意見は絶対だとは思いませんが、私の立場はゲーム会社ではなくゲーマー/消費者側です。私は立場的にゲーマーは本文のような意志を持って欲しいと思っています。 かつて自分の動画でも 似たことを申し上げたことがあります。基本的に私の主張は「消費者が強くあるべき」というものです。
何とは言えないですが、2016年には「ゲーム会社の方針が納得いかないからユーザーが類似したゲームを作って新たな競技シーンを作る」という大きなプロジェクトがありました。それは問題が発生して頓挫しましたが、このゲーマー主体的な精神性を現代人が聴くとビックリすることでしょう。このバベルの塔的事件をいずれ美談として喋る必要がないように、競技シーンは守りたいなあと私は思っています。
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LJL には出場資格があり、出場権の契約があるという話題は例えばこちらの記事で述べられています: 『「LoL」,プロチーム・Unsold Stuff Gamingの2020年度「LJL」出場はなし。ライアットゲームズがLJL新チームの一般公募を発表』 ↩︎
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CPT が CS:GO Major Championships を真似たという明確な出典を出せないのですが、言える範囲で申しますと CPT ははじめ Capcom USA と Twitch 社の共同主催でした。 ↩︎
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一部PCゲームは00年代に日本で公式大会を継続的に行っていました (記事) 。この文脈を継いだタイトルが AVA, サドンアタック, スペシャルフォース であり、現代の esports チームにも繋がっているため、現代との繋がりもあります。ただ、これらタイトルに既に WCG 等の esports 文脈が影響していた可能性もあり、本文の議論ではグレーゾーンにあたると考えています。 ↩︎
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90年代に日本でも『ストリートファイターIIターボ チャンピオンシップ’93 IN 国技館』や、ポケモンの『ニンテンドーカップ』のようなゲーム会社主導の公式大会がありました。しかし、スト2全国大会は一度途絶えてしまい、00年代は闘劇というサードパーティ大会(= 本文では消費者に分類)が文化を牽引していたと見ています。後者の『ニンテンドーカップ』も途絶えてしまい、また当時は15歳以下限定だったため、少し esports とは役割が違ったと感じています。 ↩︎