「大会で勝ったらスポンサーがつく」と信じている現役ゲーマーは多いでしょう。しかし実際に運営をしている裏方や、カネを出す企業からすると「勝つだけじゃダメだ」と言われます。このすれ違いはどこに原因があるのでしょう?
導入
例えば、スマブラ勢は今も非公式大会が競技の主流である不思議な界隈です。そのため、スポンサーされていない若いプレイヤーが無双することがあります。そんな人がプロ組を押しのけて Top8 に入ったりしますと話題になります。そこで観客は言うわけです:
こんなに強くてすごい!どこかチームがスポンサーするべきだ!
と。これは果たして一定の実態があるでしょうか?他のゲームでも同様の議論は存在すると思います。
他にも事例はあります。旧Twitter(新X)にて:
過去の実績:〇〇優勝, 〇〇3位, 日本ランキング16位。スポンサーお待ちしてます!
といった投稿を出す人が居るでしょう。実際にこれを見てスポンサーをする企業はあるのでしょうか?
本文ではこういった「大会で勝つこと自体に意味が有るのか?」といった議論一般を行います。
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写真出典
。最近開催された Genesis X を優勝した Zomba というプレイヤーは今までも好成績を残していましたがスポンサーがついていません。今大会中の不遜な言動は日本でも好意的な方向で話題になりました。果たして勝利とスポンサーは関係あるのでしょうか?]
勝利に価値があるならば
では一旦、大会で優勝すればすかさずスポンサーがつくような価値があると仮定しましょう。
「価値」とは難しいものですが、企業からスポンサーがつくということはお金を払う意味があるということです。ゲーマーが企業に物品やサービスを提供できることはほぼなく、概ね全ての場合で広告的な対価に料金を払っているのが実情です。もしくは企業イメージを良くする何か(= 弊社は文化や地域に貢献しているという戦略に合致する像)を見出され、イメージキャラクターとしての起用になるでしょう。
「お金」とは万国で共通する価値の代替です。この場合、スポンサー料を多く貰った選手ほど持っている勝利の価値が大きいということになるでしょう。
すると、企業の広告宣伝やイメージに貢献するには、該当選手は観戦者・消費者から見て “良い感じ” でなければなりません。プレイスタイルがカッコよかったり、本人がどことなく良い感じだとスポンサーはつきやすいでしょう。一般的に言う「子供の憧れ」や「社会の模範」である選手のことです。
他にも、殊に個人競技ではインターネットでのフォロワーが多い方がスポンサーがつき易い傾向が実情としてあります。
そこで必ずこの議論になりますが、例えば誰とは申しませんが「非常に消極的で見栄えが悪いプレイスタイルなのでスポンサーがつかない強豪選手」より、今一線級ではないけれどスポンサーがついている選手のほうが価値があるのでしょうか?他にも例えばそういった見栄えの悪い選手が決勝戦に進出したため決勝戦の視聴者数が下がった場合は、その手前で負けてしまった選手のほうが価値があったと言えるでしょうか?
負けた方が価値があったとする実例は、前提である「勝つことに価値がある」に矛盾するように見えます。
外在主義
こういった議論は既存のものがあります。ちょっとスポーツ哲学での用語を見てみましょう:
- 外在主義:競技の価値は競技の外にあるという考え方。例えば「スポーツをすると社会で役立つ人間になるからスポーツには価値がある」とか、「視聴者が多いからこの大会は価値がある」など。
- 内在主義:競技の価値は競技の中にあるという発想。「ラグビーのスクラムを現実でやることは一切ないけれど、スクラムで活躍できること自体に意味がある」といった考え方。
この2つの用語が本文のキーワードです。この段落では前者「外在主義」を見ます。歴史的なことを言いますと、はじめは「外在主義」が主流でした。そのため、多くのスポーツ大会や部活の標語では:
豊かでたくましい心身を育てることにより青少年の健全育成を図る
といった文言が世界中で含まれています。オリンピック憲章もこのような次第でしょう。 “健全な精神” や “社会的意義” のように、「スポーツの外で通用する価値」(= 外的な価値)を重視する考え方です。「スポーツマンシップ」といった概念も外在主義から来ているでしょう。
現代でも、メーカー(= ミズノやYONEX)が大会を主催するものは外在主義的な大会になります。ブランド名が広く知られて欲しいとか、商品が売れて欲しいといった「外的な価値」がなければメーカーがお金を出すことはできないからです。
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画像出典
。今も「スポーツマンシップ」と検索すれば教育関連の話題が多く挙がります。]
内在主義
しかし、私の視点では外在主義は歴史的な経緯に過ぎません。スポーツが学校教育の部分集合だったからです。また、「価値観の多様性」といった概念が出てくる前の世界での発想だからです。
最近はと言うと、内在主義が主流になって来ました。その競技自体に価値があるとする考え方です。
例えば、私がいま出場しているような空手の区大会は企業スポンサーがほぼついておらず、それでも毎年必ず開催されます。空手のための純粋な大会です。参加者数や商品の宣伝価値は関係なく、空手のスキルという「内的な価値」だけを求めて開催されます。
こうした内的な価値がいかに洗練されているかにこそそのスポーツの意義があるとする主義が内在主義です。
※ 現実的に、完全に内在主義/外在主義のどちらかしか無いイベントというものはこの世に実在しないでしょう。本文ではどちらかと言えば内的な価値を重んじる考えを内在主義と呼び、その逆を外在主義と呼びます。
実際、内在主義でないと現代の価値観にマッチしません。
例えば「サッカーは人口が多いから価値があるけど、アメフトはアメリカ人しかやっていないからスーパーボウルは価値がない」と言われましても、そんな議論はできない訳です。フィギュアスケートが上手くても「実際に人生で氷の上を滑ることなんてないじゃないか。だからフィギュアスケートに価値は無い」と言われたら、全く以て意味不明なわけです。
アメフトは、興味がない人からしたら価値がないかもしれません。卵円型のボールを投げたりキャッチしたりする能力に、人間社会全体で通用する価値はありません。しかしアメフトが好きな人達の中ではアメフト自体に価値があります。また、氷の上で4回転ジャンプができること自体に社会的価値はありませんが、フィギュアスケート選手としての腕前自体にはその業界で価値があるのです。
また、内在主義にしていないと困るスポーツが沢山あります。例えばスケボーはヒップホップ文化の影響が強く、競技者に若者も多いです。オリンピックの中継で独特な言葉遣いの解説が話題になりました。しかし「言葉遣いがオリンピックに相応しくない(= カジュアルすぎる)」からスケボーが価値がないと言われるとどうでしょう?外在主義の人ならそういう叩きをすると思いますが、内在主義の人からすると「いや、それでも競技自体に深さがあるから価値がある」と言うでしょう。
[この議題ではよくボクシングが挙がります。一般的に言えば人を殴るのはダメなことですが、ボクシングには競技としての価値があります。これはボクシングそれ自体に価値(= 内的な価値)があるからです。
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こうした理由から、スポーツ哲学の現在の解釈ですと内在主義(もしくはその拡張)が主流です。哲学をやっていなくとも、なんとなく現代人は「みんなの価値観は違うんだから、競技自体に価値があるという考え方のほうが自然だよね」という感覚は、共感いただけないとしてもご理解は頂けると思います。
この辺りの歴史は一度まとめたものがあります(= まとめてあった記事を訳して解釈しました)ので、御覧ください:
ゲーマーは内在主義であるべき
この外在主義 vs. 内在主義の発想は、そのままゲーム・esportsでも適用できると私は考えます。
Esports 全般に関しては内在主義で、つまり「ゲームで強いこと自体は界隈の中で価値がある」という方法で解釈したほうが現代にマッチすると考えます。
つまり、ゲーマーが大会を開く側の心持ちとしては外的な価値、例えば:
- 視聴者を増やすために〇〇しよう!
- 賞金を大きくしたら凄いと思われる!
- スポンサーをつけてイケてる感じにしよう!
といった部分は忘れて、その界隈の中でできることをしたほうが “良い” という考えです。こうした方が競技自体の価値は守られ、界隈は丸く回ります。
例えば、例を出すのは大変失礼で恐縮ですが、 スマサー合宿 や JAWS PLAYERS といったイベントは、FIFA ワールドカップ(= 世界最大のイベント)と比べて「社会的価値が無い」と言われればそれはそうでしょう。しかし、それらのイベントに人が来て、ゲーム内行為が行われて人の輪が生まれること自体に意味があるのです。
出場する側にとっても、内在主義の方が納得が行くと思います。「優勝したアイツは炎上したからダメだ。それに比べて3位だった〇〇さんは素晴らしい」といった外在主義的比較をされるよりも、「勝った人が強い」という議論になった方が目指す方も良いでしょう。
更に踏み込んで、外在主義が進むと「なんなら視聴者数さえ取れれば良いから、ストリーマーだけを呼んだ大会を開こう」と主催者側が考えるようになります。こういったリスクはかつて別の記事でも書きました:
発生する問題点
一方で内在主義にもゲーマーに都合が悪いところがあります。「ゲームで強いこと自体は社会的な意義(= 外的な価値)がない」という意味を持ってしまうからです。
すると最初の問に帰りますが、大会で勝つこと自体はスポンサーを得る・チームに勧誘されることとは別問題ということになります。そのため、
過去の実績:〇〇。スポンサーお願いします!
みたいな内容を Twitter(新X)に投稿しても、プロフィールに書いても、余り企業側には響かないということです。
ならばスポンサーが欲しい場合は、頑張って別途外的な価値・社会的価値を説明する必要があります。つまり、
- フォロワーが◯人居ます
- ライブ配信で視聴者が◯人来ます
- 〜〜という地域を代表しています
- こういうデモグラのファンにリーチできる
- こういう人格者を応援することで、御社のイメージがアップします
といった部分です。これは運営陣・裏方陣からすると実態・直観に合致すると思います。企業がその選手をスポンサーするかどうか検討する時、強さや実績はある程度チェックしますが、最終的にはもっと外的な価値で社内の決を採るものです。
たぶん現役プレイヤーの方が私の意見を聴きますと、
「じゃあなんすか?練習してないで配信しろってことすか?」
と反論をしたくなると思いますが、必ずしもそういう訳ではありません。私が申し上げたいのは、勝利とスポンサーは別軸ということだけです。プレイヤーの方は現役同士で会話して「結果出したらスポンサーが来た」といった選手視点の話題を共有していると思いますが、お金を出している側は同じことを考えているとは限らないのです。
2024年esportsの現状
では2024年現在、esports を取り巻く市場はどうなっているでしょう?私はここまでの議論では想定していなかった道に進んでいると考えています。
実際に:
大会に価値があるのか?勝つことに価値があるのか?
という議論をしている界隈はもはや珍しいでしょう。なぜなら、プロゲーマーが存在するゲームタイトルは現状ほぼ “公式リーグ” が在るからです。公式リーグとは、ゲーム会社が自ら運営し、長期的・定期的に勝負の場を提供していることです。
かつての大会は:
- (内在主義)最強プレイヤーを決めたい・単に戦いたい・ゲーム会社が開催してくれない
- (外在主義)若年層にリーチしたい・CPUやデバイス等の商品をプロモーションしたい
という目的のためにゲームを利用していました。
一方公式リーグというのはゲーム会社が「ゲーム自体のプロモーションをしたいから・MAUを維持したいから」といった理由で行われます。これは内的でも外的でもない第三の理由だと私は感じています。
ゲームというモノは本来は競技・手段でした。ゲーム会社の開催する公式大会は少数派であり “WCG” や “闘劇” といった大会はゲーム会社ではない企業の主催でした。今はゲームがそれ自身のために、自身の売上からカネを出して運営します。ゲーム自体が目的であり且つ経営になっているのです。
これは一見すると内的な動機(内在主義)にも見えるのですが、主体がゲーム会社なのかプレイヤーなのかという違いがあるため、上記の内在主義とは異なります。
[Dota2 The International 2018 の様子。ゲーム会社による 1st party esports の推進は、この大会と LoL Worlds のライバル関係から興ったと私は解釈しています。]
これ(= ゲームの公式リーグ)はスポーツ哲学・倫理学でも想定していなかった視点でしょう。
すると、ゲーム会社が全部やってくれるのならばプレイヤー側は内在主義的・外在主義的な動機を考えなくて良くなります。ここからいずれ危機的な事態が来ると私は提言したいです。例えば:
- この大会は本当に最強のプレイヤーを決定できているのか?(内在主義的)
- この競技を盛り上げるために自分も大会の告知を頑張ろう(外在主義的)
といった意志をプレイヤーは持たなくて良くなるわけですから。もはや、部分的にはこの事態が到来しているシーンもあると言えるでしょう。
伝えたいこと
この “危機” に対して、私は「公式大会を辞めろ」とか、「ゲーマーは自主性が無い」とかそういう話はいたしません。歴史上、全体で見ればゲーム会社もゲーマーも最も努力している時代に突入していると思います。
申し上げたいのは、もし現在「公式リーグ」の外側にいる方がいらしたら、内在主義や内的な価値を思い出して欲しいということです。
正直なところ外的な価値(= 視聴者数やスポンサー効果)については、公式リーグがなんとかしてくれます。
※ もし公式リーグよりも視聴者数が出る大会を開いている方がいらしたら、それは是非継続されて下さい。基本的には例外的事態です。
在野のゲーマーにおかれましては、内的な価値(= その競技自体の良さ)を意識して欲しいです。伝統的なスポーツも、学校の部活では外的な価値、つまりフォロワー数とか視聴者数を意識してきた訳ではありません。全ての大会や対戦会は、そこに存在するだけで参加者にとっては唯一の価値があります。
逆にこういった内的な価値は、企業には出しにくいです。
この辺は私のいつもの主張と同じです。
[参考として 私の動画の一例 です。]
以上
本題の「大会で勝ったら価値があるのか」ですが、以前は外的・内的な価値の議論が盛んだったものの、現代では第三の価値があるので危機が訪れると申し上げました。私としては、昔のように「勝ったら価値があるのか?」という議論が盛んな時代に戻りたいと思っています。
このあたりの話題は『スポーツ倫理学講義』という一冊で網羅できます。少し入手が難しいですがオススメです。
私はもうちょっと議論を深堀りしたいのですが、なにせアカデミックではない人間なので限界があります。もしこれをご覧の方でスポーツ哲学をしている方がいらしたらどうかリプライかメッセージを頂けると幸いです。よろしくお願いいたします。