恋心は超グリーディ

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Dec 25, 2021 - philosophy others

スポーツ哲学まとめ

本文は「スポーツとは何か」について考えた過去の叡智を紹介するものです。

本来は次の投稿である 『Esports はスポーツか議論まとめ』 の前提情報としてまとめたものです。
この世には「スポーツ哲学」というジャンルがあり、スポーツとは何かについてしっかりと議論が世界中で行われて来ました。本文はこの叡智を、日本語でゲーマー向けに紹介するものに相成ります。

前提

スポーツとは何でしょうか?また、なにを大事にして来たのでしょうか?例えば、あるスポーツの大会でルールを変えるとしたら、その変更はどういった理念に基づくべきでしょうか?スポーツマンシップとは、スポーツの概念の中でどうした位置にあるでしょうか?

この議論をするための指針は「スポーツ哲学」というジャンルにある程度揃っています。ただ哲学の専門用語が多く部外者には厳しいため(スポーツというよりほぼ哲学です)、より多くの方・初心者の方々がこの指針を有効活用出来るように筆者(私)がここにまとめました。

念の為、筆者はゲームの人間であり、スポーツ哲学の者ではありません。独学でこれを準備し、ゲーマーに活かすために勝手な解釈・具体例を追加しました。

概要

本文は Stanford 大学の総合論文をレジュメ化したものが主な内容です:

本文で「原論文」と呼んだ場合、この論文を指します。
ただ、中身の要約に加えて筆者の付け足し(補足・意見)もございます。章立ては原論文からちょっと変えました。そしてかなり内容をはしょっているため、気になった方は適宜こちらの原論文をご覧になって、引用元を掘って頂ければと存じます。

これを読まれる方は哲学の用語・人名・ジャンル名は余り馴染みないことだと思います。今回は特に日本のゲーマー・esports 関係者の方が「Esports はどこがスポーツなのか」と論じるために必要な情報を提供できれば、と思っています。

“代替メッセージ”
原論文

以下、本編です。
原論文の第1章からはじめます。

1. 導入

スポーツ哲学はいつ・どのような経緯で発生したのかの紹介パートです。最も歴史用語が多いパートですので、辛い方は気にされなくて大丈夫です。

1.1 スポーツの背景

古代シュメール人・古代エジプト・古代ギリシャ・古代ローマでは既に戦争への準備としてスポーツ競技が行われていました。

ギリシャのすごい哲学者たち(プラトン氏やアリストテレス氏)はスポーツが教育の核だと考えました。「調和」が重んじられたギリシャでは、肉体と精神の調和はスポーツ競技でもたらされることになっていたからです。ローマ帝国時代でも、兵士育成のためにスポーツが活用されました。当時・その後のカリスマ聖職者たち(アウグスティヌス氏やトマス・アクィナス氏)も「魂が良い感じになるには健全な肉体が必要」と言いました。

ルネサンス期もスポーツは学校の授業に取り入れられました。プロテスタントが現れても人間の形成のためにスポーツは尊重されます。ルター氏は「個人・兵士の育成のためにスポーツが大事」と考えました。更に啓蒙時代、ルソー氏は肉体と精神の調和のためにスポーツが重要だと主張しました。

19世紀に入り、ビクトリア朝英国・ドイツ帝国では「スポーツは人格形成のための活動」とされました。そして、有名なクーベルタン男爵の「近代オリンピック提唱」に繋がり、1896年には現在のオリンピック開催に至っています。

こうしてスポーツ自体は人類の歴史にずっと登場していますが、スポーツが議論対象として哲学に採り上げられるほど人類の学問が豊穣になったのは20世紀のことです。ここからは「スポーツ哲学」について見て行きましょう。

1.2 スポーツ哲学の歴史

スポーツを哲学として捉える道は、有名なホイジンガ氏の “Homo Ludens”(1938年)に端を発します。ホイジンガ氏は Play に関する哲学を切り開きました(日本でもゲームでは小島秀夫監督がよく引用されています)。が、のちに多くの研究者が「play と sport は厳密には異なる集合である」とツッコむようになったため、スポーツに関する話題を別途挙げる方が増えて行きました。

現代の Kretchmar 氏によると、「スポーツ哲学」確立に至るには3つの段階があったと言われています(註1)。

  1. Eclectic(折衷的)時代は、1870 - 1940 ごろ、スポーツ哲学は教育学の一部分でした。
    特にデューイ氏, ソーンダイク氏のように日本でも著名な人物たちが、自著の中で game(競技)に関する考えを述べています。
    第一次世界大戦ごろには ‘The New Physical Education’ 運動というものがあり、体育理論が確立されました。この中で「体育教育は人格形成全般に役立つべき」とされています。このように教育の一環として、文中に「スポーツ」に関するものが登場する程度でした。

  2. System based 時代は、1950 - 1970 ごろ、過渡期でした。
    スポーツに関する哲学的議論は、上の体育教育にあたるものから、哲学へ重心が移行するようになります。例えば「アメリカスポーツ哲学の父」と呼ばれる Earle F. Zeigler 氏がこの時代に活躍しました。

  3. Disciplinary(独自学術分野)時代、遂にジャンルが成立します。
    1972年ボストン市にて、アメリカ哲学会(= American Philosophical Association)の定例会開催中に国際スポーツ哲学会 (= IAPS, 最初別名、のちにこちらへ改名)が発足します。こうして独自ジャンルとしての「スポーツ哲学」が誕生しました。
    こちらの国際スポーツ哲学会が発行しているジャーナルが “Journal of the Philosophy of Sport” であり、今回引用した論文も多くこちらに掲載されています。

このように 1. ~ 3. を経て、今のスポーツ哲学へ至ります。あとはスポーツ哲学発足以降の出来事について少しまとめます。

スポーツ哲学は早い時点で分析哲学派と大陸哲学派で分化がありました。分析・大陸という対立はちょっと専門的ですが、大まかに「米英は分析哲学」「他の西欧は大陸哲学」と思っておいて下さい。哲学一般でもこの2分化がされているのですが、スポーツ哲学でもそうなったということです。本文で私が引用する方では Suits 氏は分析哲学を用いてスポーツを論じた(註2)一方、 Kretchmer 氏などは現象学(大陸哲学)を用いた手法を採用しています(註1)。

また、マッキンタイア氏の『美徳なき時代』(1984年)(註3)が流行って以降、スポーツ哲学も徳倫理学を意識したものが増えたと言われています。(『美徳なき時代』を簡単にまとめると、昔は貴族社会や宗教の教義が社会全体に共通する美徳を提供してくれていたからそれに従えばよかったけど、現代はそれらが無くなったから自分で自分の美徳を見つけなければならない、という考え方です。)

そして昨今は、お待ちかね “esports” についての議論がさかんです。文献も多くあります。「Esports はスポーツなのか」もしくは「esports の特徴は何か」といった面で多数のの先行研究があります。こちらについては、主に次のブログ投稿『Esports はスポーツか』で扱います。(註4

第1章は以上です。ここまでは歴史に関する内容でしたが、これ以降は具体的内容に踏み込みます。

“代替メッセージ”
[現代オリンピックの発足を呼びかけたクーベルタン男爵。フランス人であり、ワーテルローの戦いで英国に敗れたのは英国のパブリックスクール教育が根底にあるとも考えていた。画像は Bain News Service より。]

2. スポーツとは

「スポーツとは何か」…これは筆者としては本文で 最も重要 なテーマでありながら、最も抽象的です。そのため原論文に則りつつも、筆者が勝手に具体例を追加し、他の文献からの情報も筆者が加筆しています。

「スポーツとは何か?」を考える時、以下の派閥に別れています:

  • Descriptive(である派)
  • Normative(べき派)
    • Externalist(外在主義)
    • Internalist(内在主義)

この分類について、一旦ラーメンでたとえましょう。Descriptive (である派)というのは「ラーメンは麺とスープのある料理である」「味噌・醤油・豚骨などの分類がある」といった現状分析を行う派閥です。一方の Normative(べき派)はもっと概念や理想を論じる派閥です。「ラーメンとは庶民的であるべき」という議論から、「庶民的でなければラーメンではない」くらいの話にまで踏み込みます。

以下、Descriptive と Normative でパート分けしました。其々の実例を見ていきましょう。

2.A : Descriptive(である派)

Descriptive とは「スポーツとは現状こうである」と述べる派閥のことです。これは現状分析であるため、そこまで哲学議論が派閥に分かれて揉めている感はありません。

Descriptive 派の見解を実際に見てみましょう。Keiper & Olrich 両氏は2016年に(註5)、過去の Guttman氏, Suits氏 (註6)の論文を総合して、スポーツには以下が現に共通していると述べています:

必要事項 補足
プレーが有る (= 人間による内的動機を伴う)
ルールに支配されている (= 登山などを含めない)
競技を伴う (= 勝者と敗者が出る)
スキルが反映される (= 運ゲーではない)
身体的スキルが要求される
広く普及している
Institution がある (= フラフープなどを含めない)

(表.1)

例えば、ソリティアは「競技を伴う」を満たさず、チンチロは「スキルが反映される」を満たさないため其々スポーツとは言えない、と述べられています。フラフープや鬼ごっこも「Institutionがある」(= 運営するでかい協会がありマネージされている)を満たさないためスポーツとは言えないとのことです。

こうした具合に、Descriptive は現在のスポーツを整理して必要十分条件を挙げていますが、多くの論文でだいたい 表.1 と同じような項目が並んでいます。Descriptive 派の議論はけっこう一枚岩である印象を受けました。

2.B : Normative(べき派)

原論文で重点が置かれているのは Normative 派の人たちです。Normative とは:

  • 「スポーツとはこうあるべき!」
  • 「スポーツとは理論上こうだ!」
  • 「〇〇でなければスポーツではない」

という抽象的規範を提唱する派閥です。哲学の中でも、倫理学に関する文章が多いです。

その Normalist も更に2つの主義に分かれます:Externalist と Internalist です。

Externalist(外在主義)というのは、「スポーツ自体に意味はなく、スポーツの意義はすべてスポーツの外にある(べき)」という理論です。つまり「スポーツは経済効果とか社会的意義をもたらすから意味がある」「社会的意義がない身体運動はスポーツではない」といった考えです。
歴史的には、Externalist が先に現れてスポーツ哲学を牽引しました(註7)。

ただ、突き詰めるとスポーツの倫理観とスポーツ外の日常社会での倫理観は異なります。例えばラグビーのタックルは試合中にしっかり行えば行うほど良い行為とみなされますが、実社会ではやってはいけません。ボールを蹴ってネットに入れる行為は、実社会ではほぼ無価値な行為ですがスポーツの中では英雄です。
このように、スポーツ内の倫理観がスポーツ外の実社会と食い違うところがどうしても出てきます。

“代替メッセージ”
[アルゼンチンポロ選手権。画像は Roger Schultz より。この画像に余り意味は無いですが、社会的意義がありそうなスポーツの例としてご紹介。]

そこで、現代でアツいのは Internalist(内在主義)です。これは「スポーツはそれ自体で意味がある(べき)」とする人たちです。原論文ではこの Internalist を大きく3つに分けて紹介しています。形式主義→慣習主義→広義内在主義の3つが順番に登場したため、時系列順に説明します。

i. 形式主義

原題は Formalism, 日本語では「ルール絶対主義」とも訳されます。つまり「スポーツとはルールだ」という考えです。

ある日 Suits 氏という論客が登場しました。彼は「スポーツ哲学」全体で大の鉄板です。ここまでも複数引用しました。彼の1978年著作は「スポーツ内在主義」の嚆矢だったと言われています(註8)。つまり、それまではスポーツは社会貢献するからこそ意味があると考えられていたが、Suits 氏のおかげでスポーツ自体に意味があると考えられるようになりました。
Suits 氏は形式主義(= ルール絶対主義)に分類されます。即ち、Suits 氏は形式主義の始まりであり、内在主義の始まりでもありました。
内在主義に留まらず、あらゆるスポーツ哲学者ならばほぼ必ず Suits 氏を引用するくらい強いです。「Esports はスポーツなのか?」と論じる論文でも、必ず一旦 Suits 氏の理論を参照し、そこから議論を開始するのが通例です。

この Suits 氏は「ゲーム(競技)」と「スポーツ」の定義を与えました。同1978年著作にて(註8)、「ゲーム(競技)」とは以下4条件があると述べています:

ゲームをプレイするとは、①特定の目的 (goal) を達成することを、②ルールの許可する手段のみを用いて目指すことである。ここでのルールは③より効率的な手段を禁じ、より非効率的な手段を支持する。④そうしたルールが受け入れられるのは、まさにこのような活動を可能にしてくれるが故である。

(この4項目のまとめ方は日本語論文から引用:註9)この①~④を「ゲーム(競技)」の定義として、ゲームを基にスポーツの定義を設定しています:

スポーツとは、身体的スキル (physical skill) によるゲーム(競技)である。

です(註10)。これらゲーム・スポーツの定義には、「社会的価値」とか「ジェントルマン」といった外部的価値観が登場しません。Suits 氏がスポーツをルールというテーマでガチガチに描写したことは、画期的なことでした。
形式主義者にとってスポーツとはルールであり、ルール以上でも以下でも無いのです。実際「ルール」繋がりで、形式主義者は法哲学者 Dworkin 氏, H.L.A. Hart 氏といった先人からの影響も指摘されています(註11)。

のちに細かい変更を加えたりしていますが、基本的には Suits 氏のこの定義を基にスポーツ哲学の議論は進みます。

しかし、Suits 氏ら形式主義には限界がありました。例えばサッカーの試合でフィールドにつっ立って何もしない選手はどう考えてもダメですが、ルール違反ではありません。すると、Suits 氏の定義では「レッドカードを喰らったジダン氏よりも、つっ立って何もしない選手の方が良い選手」ということになってしまいます。これはどう考えても直観に反します。
「つっ立って何もしない人たちの集まり」をスポーツマンと定義出来てしまうような理論はダメじゃないでしょうか?

「スポーツをする」というのは「ルール違反をしない」ということではありません。Suits 氏の形式主義(= ルール絶対主義)は「スポーツ内在主義」(= スポーツ自体に意味がある)という革命的概念もたらしましたが、これだけではスポーツとは何か?を描くには不充分でした。これを踏まえて、次のパートへ進みます。

ii. 慣習主義

原題は Conventionalism です。慣習主義は上の形式主義に続く形で登場しました。

「ゲーム(競技)」に於けるルール外の “不文律” の重要さを推しています。慣習主義の開拓者 D’Agostino 氏は、各スポーツには慣習があり、それがエトスのように機能していると述べています。同氏はエトスとは:

公開されていない・暗示された慣習であり、各競技のルールが特定の状況でどのように適用されるかを決定する

としています(註12)。1981年のことです。エトスとは本来はアリストテレス氏の用語で、元は「その社会の習慣によって生まれた道徳観・特性」のような意味です。

例えば、野球の投球フォームでどのくらいがボークに当たるかは、習慣で決まっています。他にも、バスケットボールの接触ファール・トラベリングは、アマチュア試合とプロ試合とでどのくらいシビアに取るかは異なります。ルールは同じなのに、どのような状況で取るかは文面ではなく慣習で決まります。他にも、メタゲームという要素があります。「この競技では〇〇が強い」「だから〇〇をルールで規制すべき」といったイメージは習慣で決まって行きます。

こうした「スポーツとはルールと慣習で出来ているモノだ」と定義したのが、慣習主義の人たちでした。

ですが、慣習主義にも色々問題があります。
一つ挙げます。スポーツの中には「良い習慣」と「悪い習慣」があります。例えばサッカーでファウルを喰らった時に、わざと痛がって演技をする行為は悪い習慣です。世間的には「よろしくない」と言われながらも、競技中は勝利のために殆どのトップ選手が行っています。
慣習主義は「スポーツには習慣がある」と言うことは出来ますが、「この習慣はよろしくないから辞めよう」と言うことが出来ません。これまた「痛がる演技をしまくる人たちの集まり」をスポーツマンと定義できてしまい、理論としてダメじゃないでしょうか?…これが慣習主義の弱点です。

※ちなみに、ii.慣習主義 と次の iii.広義内在主義 とを併せて「エトス論」(ethos theory) と呼ぶこともあります。これはルールしか考慮に入れない i.形式主義 に対して、ルール以外も入れる派閥をまとめてものになります。

iii. 広義内在主義

原題は Broad Internalism です。Interpretivism(解釈主義)とも呼ばれます。最後に登場し、今最も広く支持されている見方です。

形式主義は「スポーツとはルールである」と考え、慣習主義は「ルールだけでなく慣習もある」と考えたのに対し、最後の「広義内在主義」では「原理 (principle)もある」と考えます。箇条書きにすると以下です:

  • 形式主義:ルール
  • 慣習主義:ルール + 慣習
  • 広義内在主義:ルール + 慣習 + 原理 (principle)

広義内在主義は法哲学者 Dworkin 氏の影響を受けており、「原理」という発想が共通しています。例えば法律というものは書いてある文面(= ルール)や裁判所での判例(= 慣習)だけで動いている訳ではありません。法律は “公正” とか “人権” といった全ての根源となる「原理」があり、これを前提に全ての事例が裁かれています。
スポーツ哲学の広義内在主義も、スポーツとはルールや慣習だけでなく、 “選手の公正” や “腕前の優劣” を「原理」に動いているという考え方をしています。「原理」があれば、上の「悪い習慣」も排除することが出来ます。(※この「原理」はスポーツ外でも共通する要素でもあるので “広義” の内在主義という名前が付いています。)
「原理って具体的に何?」というイメージについては、以下の a.-c. で出します。

今人気な広義内在主義という立場ですが、人気であるが故に幅も広く、以下a. - c. の3種類に分かれるとされています。

  • a. 社会契約
  • b. 競技至上主義
  • c. 相互主義

時代的には1990-2000年代くらいに登場しました。少し触れましょう:

a. 社会契約:スポーツは選手の社会契約によって成立しているという考え方です。スポーツはルール・慣習で成立しているのではなく、選手がそれらに「同意」しているという原理があるから回っています(註13)。例えば「ルールの穴を突く行為」は、ルール違反ではないかもしれませんが、同意に背くのでダメ、といった解釈が出来ます。ルールや慣習よりも、同意という原理の方が優先度が高いわけです。
社会契約とは何かについては、動画 ぴよぴーよ速報 がオススメです。

b. 競技至上主義:原論文では ‘respect for the integrity of the game’。スポーツというのは選手・ルール遵守・収益とかのためではなく、全ては競技自体のために有るという考え方です(註14)。
これはマッキンタイア氏の social practice を意識した理論です。マッキンタイア氏(= スポーツとは無関係の倫理学者)は:

外的善と内的善は違う

という見方を提案しました。スポーツで言えば社会的価値・お金などは外的善であり、スポーツ自体の価値が内的善です。そして、内的善は social practice [= その輪の中での習慣的実践]でしか養えないと考えます。
Butcher & Schneider 両氏は、試合とはどちらが優れているかを確かめる行為であり、何を以て優れているとするかは競技シーンの習慣的実践で決まっていくと説きました。この「競技としての高み」という原理のために全てが動いていると考えました。

c. 相互主義:原題は mutualist です。スポーツとは「挑戦を通じて高み(excellence)を目指す相互合意のある冒険」と述べています(註15)。特に「お互いに」高みを目指すという原理を重視しています。
特徴的なのは「スポーツはゼロサムゲームではない」という主張です。これもマッキンタイア氏の影響です。相互主義では、勝者というものはそもそも外的善であり、「競技の高み」は内的善と考えました。そのため、たとえ試合に負けたとしても競技の高みを目指している限りは価値があると考えます。これはクーベルタン男爵の有名な「参加することに意義がある」発言にも沿っていると分析しました(註16)。

以上、広義内在主義の a.-c. という3派閥でした。
個人的な話ですが、筆者が「競技・勝利とは何か」と考える時、この a.-c. をかなり参考にします。

ここまで読むと「広義内在主義」は完璧に見えますが、批判もされました。Kretchmar 氏の論文で幾つも指摘されています。

“代替メッセージ”
[スポーツ哲学:内在主義への流れ。2.B のまとめ。]

2章まとめ

長くて重いパートでしたが、ここではスポーツ概念論(スポーツとは何かという議論)を以下の形で分類しました:

  • Descriptive(である派)
  • Normative(べき派)
    • Externalist(外在主義)
    • Internalist(内在主義)
      • Formalist(形式主義)
      • Conventionalist(慣習主義)
      • Broad Internalist(広義内在主義)

Descriptive と Normative は昔から今まで双方存在しています。一方で、Normative の中の分類は歴史順です。

“代替メッセージ”
[スポーツ哲学にもやたらよく登場するマッキンタイア氏。本来は倫理学・政治哲学に分類され、スポーツは一切関係ないが、20世紀後半に多くの学問に影響を与えた。例えば筆者が普段用いている authenticity の発想にも関係。彼の理論は「みんなが統一して評価する社会的美徳はなくなってしまった」「社会が認めてくれるモノよりも、自分たちの慣習で育てられた内輪の美徳を重視すべき」といったもの。]

3. スポーツ哲学の論点

上の第2章では「スポーツとは何か」という大きくて抽象的なテーマを扱いました。大きいというのは、スポーツ哲学の全体像に関する議論だからです。

ここからは要素ごとのテーマを扱います。実際にスポーツ哲学ではどういった議題が扱われているのでしょうか?
原論文では8項目が述べられています。勿論他のジャンルも存在しますが、これらに関するものが多いです:

  • スポーツマンシップ
  • チート
  • パフォーマンス向上
  • 危険なスポーツ
  • ジェンダーや人種
  • ファン
  • 障害者スポーツ
  • スポーツ美学

ここではゲームに関係しそうな点だけ掻い摘んで申し上げます。以下、一つ一つのミクロなテーマを、部屋ごとに覗いて行きましょう。

3.1 スポーツマンシップ

スポーツマンシップはアスリートにとってとても重要な観点ですが、哲学では余り盛んでないジャンルだそうです。
強いて挙げるなら、「スポーツマンシップ」という一つの像があるのか・それともスポーツマンシップというモノは無い(= 複数の美徳の集合に過ぎない)のか、対立しているそうです。

スポーツマンシップというモノは無いという立場を見ましょう。「スポーツマンシップは道徳(倫理学)のカテゴリなのか?」という議論は古く、1964年から提唱されました。そこでは、「ガチ勢」(competitive)と「エンジョイ勢」(recreational) の差があると指摘されています(註17)。つまり、スポーツのガチ勢とエンジョイ勢では目指しているものが異なり、前者は公正さを・後者はみんなで楽しむことを目的としていますが、すると両者に統一して存在する「スポーツマンシップ」なんて概念は無いのではないかと提案されました。

一方で、スポーツマンシップは一つの概念であるという立場もあります。スポーツマンシップは、ガチ勢でもエンジョイ勢でも「原理」(c.f. 上述の「広義内在主義」)を守ることであるという見方があります。他にも、スポーツマンシップとは「勝利至上主義とエンジョイ至上主義の中庸」という意味で共通しているという考えもあります(註18)。

3.2 チート

スポーツでの「チート」というのは、道徳的失敗全般を指します。ゲームの「チート」とは意味が異なるので注意です。原題は cheating で、語義では「ズル」という意味です。日本語では「意図的ルール違反」と呼ぶ方もいらっしゃいます。

チートは定義が難しいと言われていますが、チート反対派には二つの見方があります。一つは「ルール違反はゲームプレイと両立しえない」という概念です。すると、チートのうちルール違反はダメとは言えますが、慣習や原理(c.f. 上述の慣習主義・広義内在主義)に違反するけれどルールには引っかからないもの(=ルールの穴を突く行為)は制限し切れないという立場になります。もう一つは、チートとは非公正な利益を得ることであるとする考え方です。これはフリーライダー問題に近い考え方です。
しかしながら、チート禁止派への反論も大量にあります。これは別にズルを推進する意見ではなく、所謂「プロフェッショナルファウル」を正当化する論調です。

この「チート」(=意図的ルール違反)は奥が深く、日本語でも論題をまとめられた 公開論文が手に入ります ので(註19)、興味ある方はお手にとってみて下さい。

ゲーマーに関する「チート」とは、今のところ全て「プログラムの改変」という自明な違反です。プログラムを改変することは「このゲームのこのバージョンを使う」というルール文面にも違反し、同じゲームでプレイしているという公正性・同意といったルール外の要素にも違反します。単純明快です。
ただ、ゲーマーでもスポーツ的チートの議論を行う必要がある場面もあります。例えばコンソールゲームでコントローラーを改造することはどこまで許されるでしょうか?FPSでの死体撃ちはルール違反では無いですが、慣習や原理に違反するでしょうか?…こういう時に、本文で紹介した議論は資料として役立つと思います。

3.6 ファン

ファン・動画勢に関する議論です。こちらはかなり esports でも見かける話題でしょう。
スポーツ観戦の理想的な姿勢とは何でしょうか?また、スポーツ選手を尊敬する態度は倫理的に正当化出来るものでしょうか?

よくある議論は、Purist(純粋主義者)と Partisan(徒党)の対立です。これは意訳すると「ガチ勢」と「ファンボ」のことです。「そんな理論まさかネットブロガーじゃあるまいし…」と懐疑的に思われるかもしれませんが、この対立には学術的議論があります。

Purist(ガチ勢)は、もっと良い訳語があったかもしれませんが、純粋に試合内容から喜びを見出すファンです。試合内容やプレイ内容の善し悪しを自ら判断し、そのレベルの高さに興奮します。特定のチーム・選手に入れ込むことは少なく、真にその競技自体を尊重していると言われています(註20)。皆さんも自身の周りでゲームが上手い友達が大会を観戦する時に、地味な玄人プレイに喜んでいる姿を見たことが有るでしょう。

Purist(ガチ勢)批判は、寧ろ Partisan(ファンボ)要素が無いところからやって来ます。Partisan(ファンボ)は特定のチーム・選手を応援する美徳を重んじます。贔屓のチームが負けている時期も応援し、その忠誠心を重視しています(註21)。極端な例ですが、普段ラグビーをしない日本の人が、大舞台の時だけ日本代表を応援する姿勢はこんな感じでしょう。

面白い点は Purist と Partisan の対立はお互いが「自分自身こそ優れている!」と主張しているところです。これらの理論は「ガチ勢とファンボっているよね〜笑」分析みたいな話ではなく、「ガチ勢こそが試合観戦の優れた姿勢である」と主張している哲学者(Dixon氏など)と、「ファンボこそが優れた動画勢である」と主張している哲学者(J.S.Russell氏など)がおり、それらがレスバトルを繰り広げているということです。
結論としては、余り主流な派閥はなく、未解決で議論中ということです。

3.8 スポーツ美学

「美学」に関するパートです。

確認ですが「美学」という学術ジャンルをご存知でしょうか?美学と言っても原論文では特に「分析美学」を意識していますが、これは「芸術の定義とは何か?」という哲学の一種です。「芸術の定義とはAだ」と主張する人が居たら、それに対して「いやそれだとBが足りなくてCが余分だ」というツッコミを入れ、対話を通してより正確な概念を言語で書こうと目指すジャンルです。簡潔で明確な文章を好み、偉い先生が何言ったとか巨匠の権威とかに依らない批判的定義を打ち出そうとしています。日本語で「美学」と言うと語弊がありますが、元の単語は ‘aesthetics’ であり、世界でもかなり人気のある学術ジャンルです。
日本語で美学についての導入を書いた文章 も有りますのでご参考に(註22)。

スポーツ哲学は20世紀の間はずっと倫理学に関するテーマ(例:上の 2.B Normative 派やスポーツマンシップ・チートなど)が主流でしたが、ここ20年は寧ろ美学の方が盛んだと言われています(註23)。

先ずは「スポーツは美学的」であるという立場があります。ただ、概ね「スポーツは全て美学的」と言う論者はおらず、スポーツには複数の側面がありその一つが美学的であるとしています。

一方で、スポーツに美学的側面は無いという立場もあります。例えば、走り高跳びの背面跳びは美しい側面もありますが、より高く跳ぶために開発されたのであり、美しく跳ぶためにではありません。そのため、スポーツには美学の側面もありますが、美学的な面が「原理」(c.f. 広義内在主義)なのではありません。芸術は原理が美学的であるため、スポーツはこれとは異なります。

また、芸術は自身の外まで表現するものがある一方、スポーツは競技の中で完結してしまうという差があります。例えば劇中のハムレットの役者はハムレット本人ではありませんが、その役者はハムレットを演じており精神の葛藤を描いています。一方でゴールキーパーはゴールキーパーそのものであり、それ以上を表しません。
ただ、この差は美学の議論というよりも解釈学のそれです。そのため、現在のスポーツ美学の議論は解釈学へ持っていくべきという主張もあります(註23)。

この「スポーツ美学」のパートはスポーツ哲学というジャンルの最前線であり、今も議論が活発に交わされている面白いところです。原論文にも多くの具体例・引用がありますので、筆者のこちらのレビューでは敢えて簡易なまとめはいたしませんでした。興味が有る方は是非原論文を当たって下さい。

3章まとめ

3章はスポーツ全体を定義するものではありませんが、何か述べる時に役に立つものが多いです。

本当はジェンダーや障害者スポーツについて挙げて、esports との関連性を述べられればと思ったのですが、筆者が esports でのこれら分野について不勉強過ぎて何も申し上げるに足りませんでした。

“代替メッセージ”
[本来の Partisan(パルチザン)の例。画像は この動画 から。Partisan は元は槍の名前であり、そこから取って第二次世界大戦中に「特定の政党を熱烈に支持する人」を指すように。スポーツ哲学の本文では「ファンボ」の意味で使用。]

スポーツ哲学まとめ

以上、これにて原論文:Stanford 大学からの総合論文のレジュメ(原論文)を終えます。原論文通りに3つのパートに分けながらも、適宜情報を追加して、スポーツの専門家が扱っている論題をご紹介しました。

やはり原論文がより詳細で、具体的な引用も多いため、是非公開されている元のURLにあたって下さい。

最後に筆者からの補足ですが、スポーツではなくゲームの専門家が普段「競技」をどう捉えているかについて次のパートで紹介しておきます。 “Esports” と言うだけあって、似ている部分も多く、何かの議論のヒントになれば幸いです。

デジタルゲームに関して

本文では形式主義のところで Suits 氏によるルールとゲーム(競技)の見方 を紹介しました。Suits 氏はスポーツ哲学では大家ですが、デジタルゲーム関係者ですと「ルールとゲーム」について違う論文を引用することが多いです。

デジタルゲーム関係者では Salen & Zimmerman 両氏による “Rules of Play”(2004年)が主流です(註24)。この書では「ゲーム(競技)」について以下のように定義しています:

ゲームとは、プレイヤーたちが、ルールによって定義され定量化可能な結果を生む人工的な対立へと参加するような、システムである。

「定量化可能」というのは、「0(負け)と1(勝ち)」でも良いですし、点数制でも可です。
また、「ルール」というものを3つに区分しています:1.ゲームのシステムを定義するもの 2. そのシステムの扱い方(= プレイ方法)を述べるもの 3.プレイ上のマナーやエチケットを定めるが必ずしも明示的に述べられるとは限らないもの …この3つです。

その上で「プレイ」とはこのように定義しています:

プレイとは、より厳密な構造の中に於ける自由な動きのことである

比較として、上の Suits 氏の定義では、「ゲームをプレイするとは」という定義をしていましたが、このように Salen & Zimmerman 両氏の定義では「ゲーム」と「プレイ」を別々に定義していることはよく指摘されます(註9)。

スポーツの専門家は Suits 氏を用い、デジタルゲームの専門家は Salen & Zimmerman 両氏を用いることが多いわけですが、凄く似ています。別の界隈同士ですが、ゲームという単語の定義に対して同じように描いた(ルール・慣習・プレイ)ところは面白いです。スポーツとデジタルゲームが根底では似ているという潜在性を見ている感じがします。
(※しかも Salen & Zimmerman 両氏は esports ではなく、一人用デジタルゲームを想定した理論であることに留意して下さい。)

“代替メッセージ”
[Salen 氏, Zimmerman 氏 両名。ゲーム関連の論文で、ゲーム(競技)・プレイの定義では定番。]

以上

筆者としては、本文は次の記事 『Esports はスポーツか議論まとめ』 のために自習した内容でした。ただ、スポーツ哲学が想定以上に面白く、このように単独でまとめた次第です。

例えば競技至上主義や相互主義の議論を見ると、大会運営としては「大会って継続するのが大事なんだなあ」「1回戦で負けて帰る人にも価値を感じて貰う施策をしたいなあ」という考えに背骨が得られます。

このように、スポーツ哲学に触れた結果ご自身の大会観に繋げる方が増えられると筆者も嬉しいです。ゲーマー由来の独自論をお待ちしています。



  1. Kretchmar, R. S., 2009, “Philosophy of Sport,” The History of Exercise and Sport Science, Champaign, IL: Human Kinetics, 181-201 ↩︎ ↩︎

  2. Suits, B., 1977, “Words on Play,” Journal of the Philosophy of Sport ↩︎

  3. 『美徳なき時代』みすず書房より、なんと2021年11月に日本語訳が再販! ↩︎

  4. ここで複数列挙します。Van Hilvoorde, I., 2017, “Sport and Play in a Digital World”;
    Holt, J., 2016, “Virtual domains for sports and games,” Journal of the Philosophy of Sport;
    Hemphill, D., 2005, “Cybersport,” Journal of the Philosophy of Sport;
    Parry, J., 2018, “E-sports are Not Sports” Sport Ethics and Philosophy;
    M.R. Llorens, 2017, “eSport Gaming: The Rise of a New Sports Practice,” Sport, Ethics and Philosophy; ↩︎ ↩︎

  5. Keiper, M., & Olrich, T., 2016, “Virtual(ly) Athletes: Where eSports Fit Within the Definition of ‘Sport’,” Quest. こちらは本来 esports について述べた論文です ↩︎

  6. Guttmann, A., 1978, “From Ritual to Record: The Nature of Modern Sports”;
    および Suits, B., 2007, “The elements of sport,” Ethics in sport p.9-19. ↩︎

  7. 参考:川谷茂樹., 2004, 「スポーツにおけるルールの根拠としてのエトスの探求」体育・スポーツ哲学研究 ↩︎

  8. 参考:Hurka, T., 2005, “Introduction,” in B. Suits, The Grasshopper: Games, Life and Utopia, Toronto: Broadview Press, 7–20. ↩︎ ↩︎

  9. 山田貴裕, 2012, 「プレイスタイルの裏切り」京都大学文学部哲学研究室紀要 ↩︎ ↩︎

  10. Suits, B., 1988, “Tricky Triad: Games, Play, and Sport,” Journal of the Philosophy of Sport ↩︎

  11. Kretchmar, R. S., 2001, “A Functionalist Analysis of Game Acts: Revisiting Searle,” Journal of the Philosophy of Sport ↩︎

  12. D’Agostino F., 1981, “The Ethos of Games,” Journal of the Philosophy of Sport ↩︎

  13. Fraleigh, W. P., 1984, “Right Actions in Sport: Ethics for Contestants” ↩︎

  14. Butcher. R. & Schneider. A., 1998, “Fair Play as Respect for the Game,” Journal of the Philosophy of Sport ↩︎

  15. Simon R. L., 2000, “Internalism and Internal Values in Sport,” Journal of the Philosophy of Sport ↩︎

  16. Loland S., 1995, “Coubertins Ideology of Olympism from the Perspective of the History of Ideas,” Olympika: The International Journal of Olympic Studies ↩︎

  17. Keating J. W., 1964, “Sportsmanship as a Moral Category,” Ethics ↩︎

  18. Feezell R., 1986, “Sportsmanship,” Journal of the Philosophy of Sport ↩︎

  19. 近藤良享, 2011, 『競技スポーツの意図的ルール違反をめぐる議論1』 体育・スポーツ哲学研究 ↩︎

  20. Dixon N., 2016, “In Praise of Partisanship,” Journal of the Philosophy of Sport. 同氏はこれ以前から Purism に関する論文を出している。 ↩︎

  21. Russell J.S., 2012, “The Ideal Fan or Good Fans?,” Sport, Ethics and Philosophy ↩︎

  22. 記事:森功次 分析美学ってどういう学問なんですか――日本の若手美学者からの現状報告  ↩︎

  23. Edgar A., 2013, “The Aesthetics of Sport,” Sport, Ethics and Philosophy. この Edgar は(註4)でも挙げた人と同じ。 ↩︎ ↩︎

  24. Salen, K. T. & Zimmerman, E., 2003, “Rules of Play” は日本語版もあります『ルールズ・オブ・プレイ ゲームデザインの基礎』山本 貴光 訳, 上下巻。 ↩︎