「予選がBo1だけど決勝トーナメントがBo3」という形式の大会はよく見受けられます。これには問題が有るでしょうか?筆者はトーナメントマニアなので、これまで考えた内容について共有したいです。
導入
Bo1, Bo3 とは試合形式のことで、其々「1本先取」「2本先取」のことです。例えばテニスでは対戦して片方の選手が6ゲームを先に取ったならば「1セット」獲得となります。Bo1 ならばこれで試合終了。Bo3 ならば、どちらかが2セット(本)取るまでまだ続きます。Bo3 とは、Best of 3 = 三番勝負 の略です。
ゲームの競技、esports でもこの用語は共通です。ゲーム内で定められた1試合を先に取れば1本ですが、大会によって Bo1 なのか Bo3 なのかルールが異なります。中には Bo5, Bo7 のこともあります(長い試合はヨーロッパに多いです)。
今回話題にしたいことは、予選が Bo1 でも、本戦/決勝トーナメントでルールが Bo3 に変わる大会は何か問題が無いのか?ということです。
囲碁はそうです。例えば本因坊タイトルでは、オープントーナメントで選抜を行い、そのあと選抜選手+招待選手で総当りリーグ戦を行います。ここまでは全て Bo1 です。そして、リーグ戦で優勝した者がタイトルホルダーとBo7で対決します。このBo7を「本因坊タイトル戦」と呼び、勝った方が来年まで本因坊タイトルを得ます。
しかし、これは途中まで Bo1 であり、総当たり形式であり、翻ってタイトル戦だけ Bo7 の一騎打ちです。違うルールで戦っているのに、果たして正当なチャンピオンとして評価できますでしょうか?
[囲碁本因坊リーグ。Bo1 で総当たり戦を行っている。1位となった1名だけがタイトル戦 Bo7 への挑戦権を得る。画像は
毎日新聞さんから
。]
問題提起
大会運営にも色々と事情が有るでしょう。筆者も個人として・企業としてゲームの大会を多々運営することが有るため、運営の予算や時間割の都合で「予選はBo1で本戦はBo3」という形式が有ることは重々承知しています。運営事情のみならず、「予選まで Bo3 だったら選手の方が疲れる」というプレイヤー見解も有るでしょう。
事情が色々と有りますので、今回は条件を絞ります。本因坊戦や、ゲームで言えば esports にしっかり取り組んでいるゲームタイトルの公式大会に於いて、大会とはどう有るべきでしょうか?所謂「プロシーン」にて「予選はBo1で本戦はBo3」形式はアリでしょうか?
特に今回は、「予選も本戦もBo3ノックアウト形式」と比較して、「予選はBo1総当りで本戦がBo3ノックアウト形式」について議論します。
[ノックアウト形式。日本語では「トーナメント」形式と呼ばれることが多いが、こういったシングルエリミネーション・ダブルエリミネーションの総称。EVO 2019 から。]
本文は筆者の「予選Bo1で本戦Bo3問題」への見解を述べます。結論としては「本戦がBo3なら予選もBo3であるべき」が筆者の流派なのですが、本文を読まれますと寧ろ筆者と対立される方も現れると思います。世の中には様々な立場の方がいらっしゃいます。本文は机上の空論が多いので、トーナメントマニアの戯言だと思って参考程度にお聞き下さい。
ただ、これを期に「予選Bo1で本戦Bo3問題」について考えるきっかけ・資料にして頂ければ幸いです。
この問題に考える時、まずは「そもそも大会って何?」に立ち返らなければなりません。
大会とは何でしょう?
大会とは何か。これについて既に考えている人は、トーナメントマニアしか居ないと思います。皆さんはどうお考えでしょう?
便宜上だいぶ端折って進めますが、例えば:
大会とは興業である
こう考える方はいらっしゃるでしょう。実際、一人で大会は出来ません。選手と観客とスタッフがあって成立するもので、これが果し合いと大会を分かつものでしょう。他にも:
大会をするなら選手も呼んで客入れもしなきゃいけないので、スタッフも必要。この費用をまかなうなら、スポンサー集めの為にライブ配信も必要だ。
…これは理念ではなく実情ですが、興業である派の延長線にこれは有るでしょう。他にも大会の理念として、以下のような文言を書いている所をお見かけしました:
大会とは、大会を通じて競技を(地域などに)普及させるもの
大会とは、競技を通じて精神を高めるもの
こういった調子です。
「大会とは何か」に関してこうした理念が登場するのは、大会の社会的な側面を見た場合です。大会がその界隈で、競技の維持や普及の機能を果たしているからでしょう。こうした「普及」の側面を考える場合、多くの人に視聴して貰うことも大切ですが、多くの方に出場して貰って経験を持ち帰って頂くことも大事です。
その場合、予選に「総当り」形式が選ばれることも多いと筆者は見ています。特に、優勝者以外の参加者にも価値を持たせたい場合です。では今回の議題である「Bo1 総当り」について検討しましょう。
総当たり形式の長所
総当り形式とは何でしょう?字義上は明確ですので、実例を挙げます。サッカーワールドカップは、32カ国の代表が集まり、予選では4チームごと8ブロックに分け、その4チーム同士で総当たり戦を行います。その結果の上位2チームが決勝トーナメントへ進めます。これには以下のようなメリットが有ります:
- 誰でも最低限の参加試合数を確保できる
- そのため、相対的に弱いプレイヤー(チーム)でも一定の機会が出来る
- 折角大会のために集まったのだから最低限保証が欲しい、という希望を叶える
- 弱いプレイヤー(チーム)が強豪チームに当たって挑戦するチャンスが得られる
です。大会が多くの方に出場して貰うことを目標にして貰っている場合、総当りは非常に有効な形式です。サッカーでは EURO や CL といった国・クラブの最強決定戦が別途有るため、多様性を叶えるワールドカップには特に適した形式だと言えるでしょう。全敗する国でも3戦は出来るのは、視聴者にとっても有益です。
ゲーム競技でも初心者が多いイベントや、誰でも参加出来るオープン大会では予選に総当り形式を選ぶことも多いです。大量の参加者が訪れるカードゲームでは類似形式である Swiss(スイスドロー)であることも多いでしょう。これはオープン大会と総当り形式が理念でも合致していると考えられます。
このように総当たり戦には長所が有ります。長所を活かしたい際には有効です。
総当たり形式の短所
しかし、総当たり形式には誰もが知る弱点が有ります。時間がかかるのです。
時間や設備がかかるため、ゲームの大会では「予選は総当り形式の Bo1 だけど、本戦は Bo3 のノックアウト方式」となることも多いです。
やむを得ません。会場費・人件費の側面から大会運営に限界が有ることも承知です。特に「プロに限らず広く色んな人にゲームプレイで楽しんで欲しい」という場合は、総当たり形式が最重要課題になり、外せないことも有るでしょう。その代わりに Bo3 ではなく Bo1 を選択します。
筆者の見解では、「Bo1 総当り」予選には以下のようなデメリットがあります:
- ① 最強プレイヤー(チーム)が凡ミスして、予選を突破できない可能性がある
- ② 突破できないまでは行かなくとも、最強プレイヤー(チーム)が2位以下で予選突破する可能性がある
です。「これそんな問題なの?」とおっしゃるかもしれませんが、筆者から言わせますと由々しき事態です。
① の凡ミス取りこぼしについては、
「一発勝負で勝ち切るのも大事」
「波乱が起きるのも魅力」
と反論される方もいらっしゃるでしょう。いや、それはそうなのですが、Bo1 と Bo3 はルールがそもそも違うのです。
同じゲームタイトルで対戦していても、使用キャラクターやマップの Ban/Pick 能力、一本終えての適応能力など、Bo3 では重要ですが Bo1 だけではそこまで活きないスキルは多々有ります。
極端な比喩ですが、予選が走り幅跳びで、決勝が三段跳びでも納得されるでしょうか?謂わんとする所は、Bo1 と Bo3 にはこのくらいの差があり、「波乱が起きる」ことを動機にルールを変えることは筆者は許容しないということです。
似た例ですが、野球ではセ・リーグのクライマックスシリーズ導入に当たり、議論がありました。年間で総当りペナントレースをしたのに、ノックアウトのBo5形式で日本シリーズ代表を決める必要が有るのかどうか?と。( クライマックスシリーズ不要論 記事 )…Bo1総当たりとBo5ノックアウトで求められる能力が異なるというは、普遍的な概念です。
また、②は問題でしょうか?予選自体は突破できているのですから。筆者としては、最強プレイヤーが2位以下で予選を突破すると、非常に問題です。本戦のシード位置が崩れるからです。簡単に言うと「荒れる」からです。
シードというのは、強い選手がノックアウト形式のトーナメント表で意図的に離れて配置されるように、大会が選手の位置を恣意的に定めるものです。
例えばテニスでは、事前の世界ランキングを基に、フェデラーとジョコビッチは決勝戦で当たるように離れて配置されています。しかし仮にこれが「Bo1予選からの本戦」となった結果、なにか凡ミスで「荒れる」状態が起き、本戦1回戦(Top128)でジョコビッチvsフェデラーになってしまっては大問題です。(男子テニスは基本的に試合はBo5です。)
[テニスの大会:Wimbledon 2019 ノックアウト形式トーナメント表。デカすぎて2分割されたがシングルエリミネーション。左端が選手名で、[] の中の数字がシード順。第1シードのジョコビッチは、第2シードのフェデラーと決勝戦で当たるようになっている。]
日本の方にたずねますと「1回戦で強豪同士がぶつかるのもロマンじゃない?」とおっしゃる場合も多いです。では、仮にフェデラーが128位で敗退したとしましょう。すると世界ランキングが崩れます。「荒れる」大会が続きますと、世界ランキングが実力から乖離し、説得力がなくなります。世界ランキングが実力を反映したものではなくなると、それに基づいた大会の権威が下がります。ひいては決勝戦やセンターコートの魅力が下がり、ファンや大会スポンサー獲得にも影響が出ます。リスクを嫌ってスポンサーは競技者にもつきたがらなくなるでしょう。単純に表せば、「盛り下がる」ということです。
「いや、ジョコビッチやフェデラーは毎回勝ち上がるでしょ」というツッコミも有るでしょうが、大会結果は1, 2位のみならず、3位から64位くらいまでが綺麗に並んでいることも大事なのです。
サッカーワールドカップは、普段練習しているクラブが異なる選手たちが、試しに国ごとに区分された急造チームで対戦する1回きりのイベントのため、真の実力は事前には不明です。だからこそ荒れる可能性のある総当たり予選からのトーナメントに一定の説得力が有ります。高校野球のようにメンバーが1年でほぼ総入れ替えになる競技ならば、1回戦強豪激突も刹那的な面白みがあります。
しかし、
- その大会結果が直近の次回大会に影響がある場合
- プロ競技シーンを長く構築して行く場合
について、「荒れる」ことを意図してシステムを作ると、個別大会や競技シーン全体の魅力低下に繋がります。毎回荒れる大会で、勝ち上がる毎回異なる王者を、ファンや他選手は崇めるでしょうか?忘れないで頂きたいのですが、ゲームの大会を主催しているのは殆どがマスコミではないのです。
こうした①②の問題を考慮すると、「予選がBo1総当り」には限界がある側面も見えます。これはそもそも「大会とは普及するためのもの」という前提があるため、リソースに限界があるならば Bo3 よりも「総当り」を優先した結果でした。
思い出して頂きたいですが、今回の議論では、プロの競技シーンに於いて「予選Bo1総当りで本戦Bo3ノックアウト」をどう捉えるかが焦点でした。ここではその前提を疑わねばなりません。改めて、大会とは何でしょうか?
改めて大会とは何か
これは筆者の主義なのですが、大会とは最強を決める場所です。
「こういう人が勝つべき」という 理想像/イメージ を体現したものである「実力/スキル」という概念があり、それが大会の結果として表出している、と参加者にもファンにも「同意」頂く場です。そのために、事前に「これで条件を満たした人が優勝」という下に集っている場所です。事前に決めたルールで、実力に応じて誰にでも平等で公平に最強を決める手順が大会だと捉えています。
具体的に言えば、年収や身分、フォロワー数やチャンネル登録者数に関係なく、実力で選ばれた強豪が、実力だけで優劣を出す場所が大会です。
一つの大会の結果順が実力順に並んでいると、参加選手もファンも納得します。大会の中の一戦一戦も、優勝へ向かって同じゴールを眺めており、大会の理念が反映されていることが理想的です。こうしたミクロ的な納得が、複数の大会や年間の成績を通して、広いファンに蓄積します。こうした同意や納得が蓄積したものが競技シーンであると考えています。
特に今回はプロシーンでの大会を想定しているため、この主義でご説明します。
こういった視点から、上記の①「波乱が起きる」ことを動機にした理由付けや、②「荒れる」要素つまり結果が実力を反映しないことに対して反対でした。
そのため、ファンや視聴者が居てスポンサーが着くことは二次的であり、理念としては最強を決めることが優先されるべきだと考えます。「普及するために大会をやるのか」と「大会をやった結果普及するべきなのか」では、筆者は後者ということです。
[「トーナメント」の語源である「馬上槍試合」は、城主や貴族が開催し、騎士や貴族が自費で出場する。最強を決めることが目的であり、スポンサー獲得や露出が目的ではない。画像は
旅こふれ
より。例えば
中世騎士物語 (岩波文庫)ブルフィンチ
にその様子が描かれる。]
Bo1 と Bo3 議論
この視点では、大会リソース(予算・時間・空間・機材 etc)が限られている場合、「総当りBo1」と「ノックアウトBo3」のいずれを選ぶべきでしょうか?
これは場合に依って異なりますが、今回はゲームの公式大会を想定していますので、日本代表を決めるようなケースを前提に考えます。
もし、最終的な決勝トーナメントが Bo3 形式ならば、予選から Bo3 であることを優先するべきです。同じルールで、本当に強い者が勝ち進むようにするためです。その結果、参加チーム数が多くて、総当たり形式を手放す必要があったとしてもです。
オープン大会の場合、Bo3 を優先すると予選がノックアウト方式になって、初参加のプレイヤー(チーム)の機会が減ることにもなります。すると、「オープン」を謳っていると理念に反するようにも見えますが、競技シーンの「大会」であるという理念は優先されるべきです。
もしくは、初参加のプレイヤー(チーム)のみで Bo3 総当り予選を行い、前回以前に結果を出していた者は本戦から出場という方式もアリです。勝利の価値を配布する場では、過去の勝利の価値に基づいた不公平は認められると筆者は考えています。これは理屈で言えば「ロールズの格差原理」のようなものですが、例えば esports では Invited Teams と Qualified Teams で混成する大会は多いため、経験には合致するかと思います。
この時、リソースが足りないならば予選は「ライブ配信をしない」という手も有るでしょう。最近はどうしてもライブ配信をすることが当然になっていますが、無くとも試合自体はなんとかなるはずです。本文では大会にとって最重要事項は最強を決めることに置いています。
もしリソースが足りなさ過ぎて「予選はBo1のシングルエリミネーションじゃないと間に合わない、でも本戦はBo3」という場合は、おそらく根本的に大会の設計が間違っています。参加者人数に何かしらで制限をつけたり、過去の実績に基づいて優先度をつけて Bo3 を維持すべきと考えます。
ここまでが、筆者の「予選はBo1で本戦はBo3」問題についての見解です。基本的にはここまでで大丈夫です。以下の補足は細かい議論になりますので、気になった方のみ御覧ください。
補足:同意と納得について
ここからは補足です。が、より混乱されるかもしれません。
筆者の意見にツッコミもあるでしょう:
「Bo3 ダブルエリミネーションよりも、Bo1 総当りの方が実力が出る確率は高いのでは?」
「エビデンス有るんですか?」
と。そりゃあ「Bo3 ダブルエリミネーション」と「Bo3 総当り」ならば、後者の方が実力が出る確率は高いと思われるかもしれませんが、今回はリソースに制限があるので「Bo1 総当り」よりも「Bo3 ダブルエリミネーション」を選ぶ点について議論していました。ただ、ダブルエリミネーションの結果、本当に強いプレイヤー(チーム)が凡ミスして敗退してしまう可能性も有るのではないでしょうか?
上位勢の間だけを見れば、ダブルエリミネーション形式にしておけば順位の不確実性を抑えられるという分析もあります(
記事
)。ただ、ダブルエリミネーションが果たして最適解であるかは証明出来ません。同様に、総当たり戦で「実力」という抽象的で複雑なモノが反映されるという証明も出来ないのです。
大会には「納得」や「同意」が必要だと上で述べましたが、現代のゲーム大会でもダブルエリミネーション形式が用いられるのは、慣習的な納得や同意に過ぎないと筆者は感じています。
はじめに述べた囲碁の本因坊戦についても、おそらく「予選はBo1なのにタイトル戦はBo7じゃん」ということに疑問を持たれた方は少ないと筆者は思っています。これはプロ棋士やそのファンの方々がルールに同意しているからです。「強い者を決めるべき形式は何か」という概念が定まっていない界隈が、大会ルールで現状悩み続けるのだと考えます。
他にも例えば、予選からずっと Bo3 なのに Top8 から Bo5 になる大会もあります。Bo3 が Bo5 に変わる件については、上述の「Ban/Pick, 適応力」については劇的に変化はしないため、大きな差では無いと言うことも出来るでしょう。実際、Bo1 と Bo3 の差と比較すると、体感非常に小さく感じます。寧ろ、「Bo3 から Bo5 へ変化するのは良いこと」とすら受容されています。ただこれも「Bo5にした方が実力が出る」という神話に基づいた設計であり、エビデンスは有りません。
本因坊戦も、「Top8 だけ Bo5 大会」も、これは慣習的な「同意」や「納得」で成立しているという所が筆者の視点でもあります。だからこそ上で「大会とは実力が結果として現れていると同意頂く場である」と述べました。
ここまで筆者の申し分に同意されていた方はここで落胆されるかと思いますが、究極的には、筆者は大会での勝利は同意に過ぎないと思って全ての理論を考えています。そのため、公式大会で「Bo1 なのか Bo3 なのか問題」で議論が起きる場合は、果たしてどちらが適しているのかという議論をするのではなく、「この形式で良いよね」という合意形成をすることが大事なのではないでしょうか?
以上
以上、トーナメントマニアの考えた理論でした。本当は5万文字くらい使いたかったのですが、今回は便宜のため短くいたしました。論理の上で途中式を省略した部分もありますので、網羅性は低くなってしまったとは自覚しています。
今回はプロシーンを想定していました。そうではない大会では、筆者も Bo1 総当りを行う大会も多く拝見していますし、「Bo1 総当り」自体が悪い訳ではありません。重要なのは、大会をどう思っているのか、そのゲームの競技シーンをどうしたいかというTO(大会運営)の意志だと思います。
筆者は最強を決める大会も、そうではないエンジョイ大会も運営をしたことがあるので、気持ちは分かるつもりです。そのため「どのゲームタイトルが良くてあそこが駄目」なんて評価は出来ませんが、こういった理論自体が存在することを知って頂けますと幸いです。