現代でゲーマーとは何でしょう?逆に、ゲーマーは自分のことを何だと思っているでしょう?この感触はゲーマーが本能的に理解しているそれと、ゲーマー以外とで大きな壁があるように感じます。これを説明するために、私の提唱する三位一体理論を用います。
背景
ゲーマーとは「ゲームをする人」でしょうか?その説明だけでは不充分です。例えば自分のことを格ゲー勢だと思っているけれども、今は一線を退いてプレイはせず、試合だけは視聴するという人がこの世にはいます。こうした人達は直観的に言ってゲーマーに含まれますが、この定義だと含まれないからです。LoL でも FPS でも同様のはずです。
ゲーマーには「〇〇勢」と呼ばれる概念があります。私はスマブラ勢出身です。たいていゲームタイトルに基づいて社会、つまり共同体やコミュニティが形成されています。他にも Apex勢, VALO勢 などの勢力があります。
そのため、私は自己紹介をするとき「スマブラ勢のアユハです」と言います。スマブラをやっている人には「ウメブラスタッフのアユハです」など、より細かな分類で自己紹介をします。使用キャラで述べる人も居るでしょう。
[2019年のスマブラ勢、大会での様子。年齢・地域も違う人達が大会という共通目的のためにネットを通して集まります。出典:
darimoko
。昔のイメージですとゲーマーは孤独に思われがちですが、今は様々なツールを通してオンライン・オフラインともに交流が盛んです。]
ゲーマーではない人、つまり一般人は感覚が色々異なります。普通は家族・学校・会社に所属していて、リア友としか絡むことはありません。趣味仲間なんぞというモノは持っていないのです。
趣味と言えばスポーツですが、スポーツも大多数の方が学校単位で行います。部活でスポーツを始めても、いきなりランクマッチに行ったり YouTube で攻略動画を見たりするわけではありません。成人でも地域クラブや道場で運動される方もいらっしゃいますが、どうしても物理的な活動であるがゆえに地縁的になりがちです。(註1)
元々は私も大学の友達(=リアルの友達, リア友)とスマブラをしていましたが、腕前が上がるにつれてネットにあった対戦動画を見るようになり、自分でもオフライン大会に行くようになってスマブラ勢に混ざりました。そのオフライン大会とは、学校や会社とは無関係にインターネットで呼びかけた人たちで連綿と続く習慣です。私は一般人からゲーマーに遷移し、違いを抱くようになりました。
この違いがあるため、ゲーマーには共通する固有の自己認識があります。逆にゲーマー, ストリーマー や esports 関連で何かをしたかった企業がこの理解をしなかった結果、マーケティングや social media 戦略でミスった事例を拝見して来ました。
こうしたゲーマーの定義や捉え方、そしてゲーマーの自己について本文で説明します。
三位一体理論
私が申し上げるのは、現代ゲーマーの三位一体理論です。
[現代ゲーマー三位一体理論の図。ここで言う「趣味」というのは authenticity に当てた訳なので、一般的に言う「軽い副次的活動」という意味ではなく、ゲーマーが自己を捧げるプレイタイトルのこと。]
現代ゲーマーが自分を何者だと思っているか(= アイデンティティ)が所属共同体(= コミュニティ)から来ており、その所属共同体は「何を好きか」(= authenticity, オーセンティシティ)を基に形成されているという図です。
つまり、
- 自己, アイデンティティ, identity
- 共同体, コミュニティ, community
- 趣味/好きであること, オーセンティシティ, authenticity
の3つが合致しているという発想です。この三位一体をゲーム周りで持つ者がゲーマーであると提案します。
昔と今のプロフィール
例えば、昔の人には今のような自己やコミュニティの認識はありませんでした。
18世紀くらいまで、アイデンティティや自己というものは金持ちの特権でした。「個人」という日本語も明治時代に福沢諭吉らが頑張って翻訳して輸入した概念です(註2)。そんな社会では、自分の階級・叙勲や土地、宗教的組織からの任命といったものが自己を表していました。
20世紀後半でも、どの学校に行き・どこの会社に入ったかが強く自分を表していたはずです。今でも東京の中高一貫校社会では出身高校の連帯感は強く、自己紹介でどこ出身かを確認し合います。また、慶応大出身の方は他と比べても同族意識が強いでしょう。また、上の世代では新卒で入った企業がどこなのかをアピールする勢力も強いです。創業時代のサイバーエージェントやメルカリ出身であることは一定の血統を表します。
しかし、2024年の現代人を見るとどうでしょう?Twitter(新X)のプロフィールを見てみると、叙勲の話を書いている人はかなり珍しいでしょう。出身校や企業のことを書いてある人は居ると思いますが、それはビジネスマンのプロフィールです。
現代インターネットではゲーマーが多いです。ゲーマーのプロフィールはと言うと、どのゲームをプレイし、どのキャラを使っているかといった要素が書いてあります。更には「〇〇リスナー」と書いてある場合もあります。これは〇〇というチャンネルの視聴者であるという意味です。
[
現代ゲーマーのプロフィール
。ゲームタイトルが記載されており、そのゲームっぽいアートワークが反映されていることが特徴です。]
経験的に・直観的に言って、現代人は自己紹介をするとき(= アイデンティティ)、どんなゲームを本心から好きであり(= オーセンティシティ)何勢なのか(= コミュニティ)を語る、ということに納得いただければOKです。
しかし、この発想はあまり簡単ではありません。ゲーマーでランクマを回している皆様であれば「お、そうだな」と自然に納得いただけるでしょうが、例えば年齢で50代以上の方にご説明するときは中々通じません。
一般人との対比
ゲーマーはどこが独特なのでしょう?なぜ既存の価値観を持つ人達:一般人には理解しえないことがあるのでしょう?
一般人にとってはまず実世界, リアルでの位置が自己認識なのであり、その範囲内で趣味を行います。しかしゲーマーにとっては、趣味でプレイしているはずのゲームこそが自己認識なのであり、学校や仕事は浮世の副次的活動です。
一般人の感覚 | ゲーマーの感覚 | |
---|---|---|
ゲームの立ち位置 | 副次的活動 | 人生のメイン |
仕事の立ち位置 | 人生のメイン | 副次的活動 |
誰とゲームするか | リア友 | ゲームで出会った人 |
人生の居場所 | 会社/学校 | ゲーマー社会 |
自分とは何か | どこで働いているか | なにをプレイするか |
[一般人とゲーマーの比較表]
その上で改めて「三位一体理論」について話しましょう。この世にはゲーマーコミュニティというものがあります。スマブラ勢や格ゲー勢といった「勢」がコミュニティです。プロフィールを書くときや自己紹介をするときに「〇〇勢」と書くということは、自己認識(アイデンティティ)が所属コミュニティから決まるということです。
そして、所属コミュニティは好きなこと(= 趣味, オーセンティシティ)から決まります。人はプレイすることが好きだからそのゲームに手を出し、YouTube で検索し、Twitter で情報をフォローしたはずです。使用キャラの Discord や、チャンネルのファンDiscordに入ることもあるでしょう。こうしてコミュニティに所属します。
すると、アイデンティティ, コミュニティ, オーセンティシティの3つが結びついていて、巡回していることが見えると思います。これがゲーマーの「三位一体理論」と呼ぶものです。
つまりゲーマーとは、この三位一体理論で言うと、ゲームを好きであり、自分をゲーマーだと思っていて、ゲーマー仲間の中に存在している人のことです。
一般人はここが異なります。自己認識は学校や会社にあり、趣味と合致していません。人付き合いはあっても、同じ趣味の繋がりがあるとは限りません。また、自己認識や友人関係を捧げるような趣味(= オーセンティシティ)を持っていません。
具体例
以上で三位一体理論の実質的な説明は終わりです。
理論だけではイメージが沸かないと思いますので、以下では三位一体理論から説明がつく社会現象について一つずつ申し上げます。オムニバス的に事例を並べるので、好きなものを並列に御覧ください。
格ゲー衰退論
「格ゲー衰退論」という議題があります。これは、昔は格闘ゲーム(= 格ゲー)は人気があったが、今は人気がない、いずれ滅びる、という議論です。実際のところ、この議題は永久にと言っていいほど長いあいだ決着がついていません。むしろ格ゲー衰退論がある中で格ゲー勢は存在し続けている実態について考えるべきです。
[出典:
格ゲー界は滅びかけたのか!?語るのが難しい格ゲー衰退論についての自論を展開するどぐら
。格ゲー衰退論は盛んな議論トピックです。]
ここで三位一体理論が使えます。「格ゲー勢」とは何でしょう?
格ゲー衰退論とは、実質的に格ゲー “勢” 衰退論です。なぜならゲーム自体の出来・完成度は年々上がっていますし、売上の話をするなら客観的なデータだけで議論が終わるからです。ゲーム自体の話ではなく、基本的に格ゲーを取り巻く人間環境の議論をしています。そのため格ゲー勢の話をしているのに、格ゲー勢の認識がズレているから賛否が分かれる議論なのだと私は考えます。
一般的に格ゲー勢とは「格ゲーをプレイしている人たち」と定義されます。だから格ゲー自体:ストリートファイターや鉄拳の売上が下がると「衰退した」と語る人が居るわけです(実際の国内売上は不明)。格ゲー衰退論を唱える人たちは、売上が減った(もしくは減った雰囲気がある)ことが格ゲーというジャンル全体の衰退であるという視点を持っています。
しかし三位一体理論によると格ゲー勢の定義は違います。格ゲー勢とは「自分が格ゲー勢だと思っている人のこと」です。厳密にはそれに加えて格ゲーが好きで、格ゲー繋がりでできた友達が居る人たちのことです。
格ゲー勢には現役でプレイしていない人が多くいらっしゃいます。今はプレイをしていなくとも Twitter で話題を追いかけている人もいれば、有名VTuberが格ゲーをプレイすれば追いかけてコメントする人もいます。もしくはこれらすらしていなくとも、自分を格ゲー勢だと思っている人も居るでしょう。こうした人達が居るから格ゲー勢というコミュニティは実態として維持されています。格ゲー衰退論に異議がある人は、おそらくこうした背景を感じ取っているため、本能的に反対しているのだと考えられます。
そのため、格ゲー衰退論は噛み合わないのです。どちらがと言えば、私は三位一体理論を支持しているため、自分のことを格ゲー勢だと思う人達がいる限り格ゲーは消えないという理論を信じています。
推しの強さは自分の強さ
最近は「推し」という文化があります。若者の多くが推し活をしている一方で、自分の推し対象を隠す人も現れるようになりました。以下のような言説があります:
https://x.com/konoy541/status/1800001127574102287
若者が推しの開示に消極的なのって、「雑にいじられたらしんどい」からで、趣味がないのではなくむしろその逆で、「誰推し」かがペルソナの核心をついちゃうからなのではという気はする。
私は古い人間なので、推しというものがあるならば、その人気を上げるためにファン自身は布教活動を行うべきだと考えます。AKB やハロプロでの推しとはそういう概念でした。しかし、現代ではネット上で推し活をしていても、リア友には推しが誰なのかを隠す人が存在します。これは何故なのか、三位一体理論から説明することができます。
推しとは自分のオーセンティシティの宿る対象(= 好きなこと)です。そこにはファンコミュニティもあります。すると自分は「〇〇推し」であることがアイデンティティ(自己認識)になります。すると推しが誰なのかを教えるということは、自分の全裸を相手に見せるようなものです。自信がある人は答えるでしょうが、多くの若者は恥ずかしがって口を割らないでしょう。
また、自分の推しが人気でないと困ります。オーセンティシティがアイデンティティと一致している結果、推しの強さが自分の強さを表すことになるからです。
ゲーマーにとって馴染みある事例としては、大会の視聴者数が少ないと文句を言う視聴者が居るというものです。分からない大人からすると「自分が楽しければ大会の視聴者数なんてどうでも良いのでは…?」となるのですが、現代人からすると死活問題なのです。自分の好きなゲームの大会が盛り上がっていないと、自分が弱いということを意味するからです。
実際に
「なんでお前は視聴者数が少ないゲームなんか見てるの?」
といった視聴者数ハラスメントが学校で起きている実態もうかがっています。
eスポーツを盛り上げたい
すごくしっかりしたビジネスマンで、
日本のeスポーツを盛り上げたい
と言う人が定期的に現れます。これを以下「eスポーツ盛り上げおじさん」と呼びましょう。
[「eスポーツ盛り上げおじさん」の抽象像。こうした方々は良いことをしているのに、なぜか既存のゲーマーから叩かれます。]
この動機や行為自体は良いことがほとんどです。しかし、既存のゲーマーはこうした人を見かけると:
胡散臭い
という拒否反応を示したり、Twitter 上で実際に叩いたりします。ビジネスマンとしては、名乗った結果叩かれるのはマーケティングの失敗です。
これは何故起きるのでしょう?本来は叩かれないに越したことはないのですが、この実態を分析したいと思います。
これはだいたい三位一体理論から説明ができます。eスポーツ盛り上げおじさんはどこのゲーマーコミュニティにも所属していないからです。所属していない結果、現代ゲーマーはこのへんの嗅覚が本能的に鋭いのですぐに「ゲーマーではない存在だ」と見抜きます。本能的に敵を嗅ぎ分けるわけです。すると叩かれるようになります。
その結果、eスポーツ盛り上げおじさんは自分が潔白であることをアピールするために:
自分は昔からFF10が好きでめっちゃゲーマーです
といった発言をツイートやインタビューで行うのですが、たいてい逆効果に終わります。それは、「FF10 コミュニティ」というモノに所属していないからです。確かに FF10 は現代でも色褪せない名作ですし、世界でも売れている有名作ですが、現代 PvP タイトルと比較すると「FF10をアイデンティティにしている集団」という存在が不明確であり、上の発言からもそういったコミュニティに所属している感じはしません。そのため、この発言をしたことで
- 「この人はオーセンティシティがない」
- 「この人はどこかのコミュニティに所属していない」
と思われれば余計に部外者感が漂います。
以上
ゲーマーとは何かを捉えるための三位一体理論はこういうものです。現代ゲーマーの定義として「ゲームをプレイする者」という定義では少し物足りなく、「ゲーム周りにこの三位一体を持つ者」と表した方が適していることが伝わりますと幸いです。この文章は一旦ここでしめます。
[出典:
@RedBullGamingJP
からの投稿。現代でのゲーマーはこの画像にあるような感じであり、この直観に理論が合致すればと願っています。]
ただ、もっと踏み込んで理屈を読まれたい方のために以下も用意しました。以下細かい理屈についてはもっと理論ばった内容が登場するため、興味ある人しか読まなくて良いです。逆に普段から当ブログを読まれたり、アユハチャンネルをご覧になっている方は読まれた方が良いです。
ここからは私が三位一体理論に至った背景を説明します。これには自己・個人とは何か?という概念から始まり、現代コミュニティのあり方にまで話が繋がります。基本的には Alasdair MacIntyre(以下:マッキンタイア)、および Charles Taylor(以下チャールズ・テイラー)の理論を継承してゲーマーに適用したものを用いるのですが、文中では哲学者の名前は少なめにして説明します。
理屈
そもそも “個人” や “自己” という概念はどこから来たのでしょう?
現代の “個人主義” と呼ばれるものは、みなさんもイメージあるかもしれませんが、オワっています。 “個人主義” という言葉が企業でのサービス残業を改善することや、一人で飲食店に入ったりすることを指すのであれば良いのですが、「自分さえ良ければあとはなんでも良い」という意味になると手がつけられません。今は転売ヤーや「再生数を稼ぐために寿司屋の醤油差しを舐める」ようなアホが続出しています。
それだけではなく、現代のそういったアホは「これは市場原理なんだ」とか「再生数稼げてるから需要があるんだ」と正当化する武器すら持っています。現代のインターネットにはびこるクソ野郎は、基本的に個人主義の手先であり、個人主義が武器を与えてしまったのです。
個人主義は何がいけなかったのでしょう?人権や自由が謳われ始めて以来、多くの個人主義議論が登場しました。「自由」という言葉自体は現代でもポジティブに捉えられますが、これらを展開した論者たちは非常に内向的で、現代風に言えば陰キャが多く、この世を否定するタイプの方が多いものでした。現在のアメリカでのリベラル思想の基となっている大ボスであるジョン・ロールズも、人間を社会とを切り離した理論を展開しています。
[啓蒙主義や社会契約論者が「自由」の先鋒となり、それらを継いだカント(1800年ごろ)やニーチェ(1800年代後半)らは内向的で、厭世的な理論を組み上げました。彼らの理論は現代国家を作りましたが、一方で様々なインターネットじゃじゃ馬に正当な理由を与えています。]
自由やリベラルを説いたルソーやロールズのせいで資本主義が定着し、数字至上主義が現れ、醤油差しを舐める人間が出てきたと言っても過言ではありません。
これまで国家や社会で採用して来た “自己” や “個人” といった概念には限界があるのではないでしょうか?そこで、より現代に適している定義を考えようとした人たちがいました。その議論を私が採用して、今回ゲーマーに適用する次第です。
上記の「自由」を唱えた人たちはアリストテレス(紀元前300年くらい)という人を叩いていました(註3)。そのためこの300年間、アリストテレスといえば概ね否定され続けていました。そのアリストテレスに着目してみましょう。
アリストテレスは「人は社会・共同体の中で生きる存在であり、他者との関わりの中で善く生きるべき」という発想です。まあつまり個人や自己とは社会の中で決まるものであり、その中で生きる道徳を重視すべきという考えです。一件すると前時代的(= 儒学的でファシズムっぽい)ですが、一周回って現代の自己でこそ重要だと考えることができるのではないでしょうか?
…これまで人類はこのような議論をして、現代のマッキンタイアはこのように異議を唱えました。では、アリストテレス的な「社会・共同体」という概念と「自己」はどう繋がるのでしょう?そこは次の段落で述べます。
自己とは何か
“自己” とは何でしょうか?人間は4ヶ月あれば体細胞が全て入れ替わり、7年あれば骨も含めて完全に物質が入れ替わるのは有名な話です。「去年の自分は今年の自分と同じ」とは自明には言えません。
では何が人間を同一人物たらしめるか?何が自己なのか?と言えば、他者との関わり合いです。社会の中で人と関わり、その中で定まった自分の位置が自己であるという考えです。
ちゃんと申しますと、自己に徳・道徳(= 共同体の中での善い人間性)があって、それが継続していれば自己に統一性がある、という表現になります。
[図はマッキンタイアが唱えた「アリストテレス的な自己」の考え方。]
その徳・道徳は「内的な善」でないといけません。外的な善ではダメです。
内的善というのは、例えばスポーツのうち「健康になる」という要素は内的善です。スキルの上手さや、スポーツをして「楽しい」という感覚も内的善です。その価値は自分にしか意味がなく、金で売れないので “内的” と表現されます。それでいて健康や楽しさは他の人も同様に得られますし、スポーツをオススメして仲間も増やせます。内的な善は他者と関わって共有できます。
一方でスポーツをすると「賞金が貰える」という側面は「外的な善」です。スポーツにとって勝敗・名声といった部分は全て外的な善にあたるでしょう。それらは社会の中で誰にとっても価値があることですが、他者との取り合いになります。例えば一部のスポーツではドーピングをしてパフォーマンスを上げることが問題になりますが、これは賞金や名誉という外的善が大きすぎるが故の問題点です。
[図はスポーツにとっての内的善と外的善の比較。]
自分の内的善を追求し、実際に行動して(実践)、その過程で他者との関わり合いがあって自分の立ち位置が決まれば “自己” が確定します。外的な善(= カネ, 名誉)ではこれができません。他者との競争や奪い合いになり、安定的に他者と関わって関係を維持していくことができないからです。(註4)
ちなみに内的善については嘗て書いた「内的価値」と同じです。直前のブログの内在主義・内的価値を御覧ください。
現代では外的善と個人主義(上記)と資本主義が融合して、道徳が失われています。
例えば、企業は利益を最大化するため山を切り開いてソーラーパネルを設置しますし、「美味しくなって再登場」とか言いながらお菓子の量を減らします。道徳的にダメなことでも、現代では「カネを稼いでなんぼ」という様に正当化される場面があります。結局今までのように「自由が大事」と言った哲学者や、ジョン・ロールズのように「機会が均等ならOK」と述べた理論が国家に採用されている限りは、こうした行為は正当化されてしまいます。
ちょっとゲーマーでも例を出しましょう。例えば上述の「eスポーツを盛り上げおじさん」って、視聴者数や賞金額のことばっかり話していて、プレイヤーとしての一貫性やゲームタイトルに対する忠誠心が無いんですよね。これは外的善(= 外的価値)ばかり見ていて、自己を見失っているということです。外的善では “自己” よりもカネの方が大事になってしまうため、自分のやり方に一貫性が持てなくなります。
悪いわけではありませんが、ゲーマーという味方が欲しい場合には厳しいでしょう。
一方でプロゲーマーは自己がしっかり統一しています。スマブラの
がくとさん
や
ぱせりまんさん
には誰が見ても同様の像を抱いているでしょう。スマブラ勢であり、特定のキャラを使っていて、自身のチャンネルで美徳を共有する仲間たちがいます。過去と今とで少し変化するところもあります。例えば所属チームが変わったりとか、髪型が変わったりとかです。それでも「その人はコレだな」という人物としての連続性があります。これは内的善を追求して、スマブラ勢と関わり合うことで自己が決まっているからです。
逆に企業が金を出しているプロゲーマーでも、他プレイヤーとの繋がりや「勝ちたい」といった内的善の見えない選手は、余りハッキリしたプロとしてのブランドがありません。
これが “自己” です。
(参考)
[マッキンタイアの説明はもっと重厚ですが、原書を読むとなると少し大変です。こちらの解説動画がオススメです。 https://www.youtube.com/watch?v=-iqziKUmWPQ ]
好きとは何か
内的善はオーセンティシティに繋がります。オーセンティシティとは「本心から好きである度合」、もしくは(抽象名詞なので)それが向いている対象です。
単純に言えばオーセンティシティは上記「内的善」が実践できる対象だと思って下さい。
オーセンティシティも内的善もアイデンティティ的であり、社会的です。
オーセンティシティは周りからの圧力からではなく、カネや社会的評価からでもなく、自分の内側から感じた好きなことです。「このゲームをプレイしたい」とか「自分はこのキャラの使い手だぞ」といった本心からの感情です。この感覚は他者と共有できて、奪い合いになりません。例えばスマブラが好きな仲間は増やせますし、同じ大会を視聴する仲間は増やせます。
それでいてオーセンティシティも内的善も、他者との関わり合いで自分の立ち位置を決めるモノです。イベントに行ったり Discord に入ったりして対話し、自分がこのゲームの一員であることを感じ、そしてどの立ち位置なのか(例:〇〇使い、強い/弱い、誰の派閥)が決まります。
逆に言えば、外的な善はオーセンティシティたり得ないということです。金儲け至上主義や、数字至上主義はそれが「好き」とは言い切れません。「再生数が稼げるから VALORANT をプレイしたい」という感覚は、「VALORANT を本心から好き」とは言えないということです。結局そういう人は GTAV が流行ったら「ストグラやりたい」と言い出します。上の議論を引き継ぎますが、内的な善から来るオーセンティシティがなければ、自己が定まらないのです。
何かが好きであり、内的善があり、仲間と実践しているならばそれはオーセンティシティの対象です。もしくは、オーセンティシティが高い状態にあると言えます。
テイラーの authenticity は定義がしっかりしているため、以前個別に書いたブログがあります。詳細はこちらも併せてご覧ください:
コミュニティ
そしてこのオーセンティシティが共通している、もしくは地続きである人の集合を今回の「コミュニティ」として定義しています。例えば FGC (= Fighting Game Community) という英単語がありますが、これは「格ゲー勢」と同じ意味です。今はSF6を好きな人が割合的に多いですが、鉄拳やギルティギアを好きな人も居て、知り合いの知り合いという繋がりで地続きになっています。こうした背景から EVO Japan のような複合イベントが可能です。
好きなもの(オーセンティシティ)は完全に合致している必要はありません。繋がりがあれば大丈夫です。例えばRTA勢が分かり易いでしょう。RTA勢は異なるゲームタイトルで・異なるレギュレーションでタイムを競っているため、一見すると全然違う人間同士です。しかし好きなものの価値観が説明なしで伝わるほど地続きであり、プレイヤー同士も面識で繋がっているため、一つのコミュニティとして機能しています。
[イベント :
RTA in Japan のスケジュール表
。扱うゲームタイトルはバラバラであり、ルールも一つ一つ異なります。それでも視聴者が多い有名イベントとして成立しており、見る側も一定の共通像があります。]
以前は共同体, コミュニティといったものは地域的な近所付き合いしか指しませんでした。趣味の集まりを指すようになったのは20世紀以降の話です(註5)。この辺については以前詳細にまとめましたのでご覧ください:
更に、現代人はどのコミュニティに属しているかでアイデンティティが決まるとしています。これは序盤に示したゲーマーの “プロフィール” に繋がります。
では現代の有名ストリーマー・有名VTuberのように、元々 Apex Legends をしており時には ARK をやって現在はスト6をしている、という人たちは何かのコミュニティに所属し、アイデンティティが定まっていると言えるのでしょうか?これは言えます。
まずはチャンネル自体がコミュニティになっていて、そのストリーマー本人が何をしたいのかがハッキリしています。また、現代の有名ストリーマーで完全に一人の存在という方は相当珍しいでしょう。ストリーマー同士にコミュニケーションがあります。まあ元々同じゲームタイトル出身であったりして、昔から面識があることも多いです。
逆に「元々LoL勢だったのですが、VALOを配信したら視聴者減っちゃった」と言うストリーマーもいらっしゃいます。これは視聴者とオーセンティシティの共有ができておらず、コミュニティが形成できていません。
このようにオーセンティシティとは、自分がそれを好きになったきっかけである背景:特にコミュニティに貢献する実践を伴わなければなりません。
このへんの議論をより掘った方もいらっしゃるので、よろしければとさかずさんのブログもご覧になってみて下さい:
まとめ
駆け足ではありますが、三位一体理論の3つを一通り説明しました。改めてゲーマーとは「ゲームに関して三位一体がある人」のことであると提案したいです。これで本文は完結します。
この三位一体理論は、私のブログで登場する ゲーマー, オーセンティシティ(内的価値), コミュニティ といった概念が全て登場するものであり、総括的な立ち位置にあります。
上の理屈ですが、自己や内的善の部分はマッキンタイアを、コミュニティやオーセンティシティはテイラーを採用しました。二人とも概念が似ているため、くっつけ易い理論ではあります。(註6)。
今回の内容はアユハDiscordの中にいらっしゃる有識者たちに多大なる協力を頂いて完成しました。わざわざ私の理論に付き合っていただいて助言下さるのもそうなのですが、様々なゲームタイトルで実態がどうなっているといった経験を提供いただいたのも大きいです。改めて感謝申し上げます。アユハDiscordが、共通のオーセンティシティを持ったコミュニティになっていると嬉しいです。
しかし、最後に申し上げますが、結局「自己」や「好き」といった部分は自分の意志で決められるのでしょうか?今回記すにあたって namnam(Rei Rain)さん とお話しして、結局「自己」や「好き」といったモノも人間は自分で決めておらず、思わず環境から持っていかれてしまうという指摘を受けました。参考までにそうした資料を置きます:
オーセンティシティも他者と関わる概念であるため、自己と環境のどちらに個人の意志が宿るのかはとても証明しづらい議論です。
また、人間は厳密には「自己」と「コミュニティ」のどちらが先に芽生えるでしょう?ここは jakさん と話して出てきたのですが、自己や好きなモノが先に決まるからコミュニティに所属するのではなく、コミュニティに所属した結果自己や好きなモノが決まる人も多いです。三位一体のパーツのうち、どのような時系列があるのかは未確定です。
このあたりは私だけでは解決しきれず今後の課題となりますが、もしこれを読まれて興味を持っていただけましたら、なにか考えて頂けると幸いです。
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最近はインターネットでフットサルをする仲間を集めたりするらしいですが、非常に前衛的で少数派です。また、最近はリア友とPvPのゲームをやり込む人も増えていることは注記しておきます。 ↩︎
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柳父 章『翻訳語成立事情』(岩波新書, 1982年) ↩︎
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アリストテレスはだいぶ昔のギリシア人ですが、トマス・アクィナス(1200年代)が彼の思想をキリスト教の教義解釈に持ち込んだため、中世のキリスト教文脈はアリストテレス的な理論になりました。その流れで、宗教改革のルターや社会契約論者のホッブズはアリストテレスを叩いたという流れです。 ↩︎
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内的善や内的価値という概念は、紀元前のアリストテレスの時点である程度提唱されていました。これを「内的」と表現したのがトマス・アクィナスであり、現在の「内的善」という概念まで落とし込んだのが現代のマッキンタイアです。ただ、私はマッキンタイアの少し前に B. Suits の唱えた lusory attitude はかなり近い概念であると感じています。 ↩︎
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ゲマインシャフトとゲゼルシャフトという単語に代表されるように、以前の社会は地域・血縁グループしかありませんでした。一方で現代では趣味で繋がる人間の輪があります。現代でも「血縁・地縁・学縁・社縁」という言葉があり、学校や会社といったリアルの繋がりが血縁・地域と並列で語られます。 ↩︎
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マッキンタイア『美徳なき時代』(みすず書房), テイラー『ほんものという倫理』(産業図書)。それぞれ2021年, 2023年に翻訳新装版が発売されており、いま日本でも注目の議題です。 ↩︎