ストーリー設定に謎が多いアニメOVA『FLCL』(フリクリ)について、ストーリーの本筋で見落とされていると筆者が感じている部分について述べます。
『フリクリ』は2000年に発売された全6話のアニメOVAであり、Production I.G, GAINAX が制作した力作です。日本っぽい街を舞台に、少年の成長を描いた勢いある物語でした。現実的でありながら突飛な世界観、それを支える作画、そして the pillows の挿入歌など、芸術的に高く評価されています。筆者の体感では2017年くらいまでは北米ではエヴァよりも知名度の高かった作品です。
筆者も凄く好きなアニメ作品ですが、「見るべき点が見落とされていない?」と思っています。例えば現在ある日本語の考察・解説は:
- ハルコさんって宇宙人だったの?
- メディカルメカニカって何だったの?
- カンチ様の正体は?
- 声優さんが誰であるのか
といったものが多いです。
確かに背景設定は謎が多く、説明されていません。ただ現代日本はフィクションを鑑賞するときに “設定” を見過ぎだと感じています。筆者としては、作品を見る場合は「そこじゃなくない?」と思っています。
作品で見るべきはテーマと主張です。寧ろフリクリは:
- 作品全体の主張
- それを表現する描写
という面では、一貫性がありキレイな作品だと感じています。実際に筆者のいる会社の本社(サンフランシスコ)にいる者とアニメ談義をする場合は、こちらが主たるトーク内容になります。
そのため、筆者が気に入っているフリクリのポイントについて書き残すことにしました。
- ※ この考察は2000年のOVAについてであり、新作の映画についてではありません。
- ※ 既にアニメをご覧になったことを想定しています。
テーマ
この作品のテーマは:
- 「子供からの脱却」
- 「大人になる」
です。勿論、物語で他の解釈をすることも出来ると思いますが、大手(搦手ではないの意)の見方はこうなると筆者は考えます。
登場人物の描かれ方を見てみましょう。
主人公ナオタは小学5年生です。社会から客観的に見れば子供です。しかし本人は子供であることを嫌がっています。「面白いことなんて起きない」といった独白から、冷めた姿勢が見えます。
その一方で、ハル子の「先に会ったのはたっくんだよ」といったセリフに異様に固執したり、辛いものや酸っぱいものが嫌いだったりと、内面で子供っぽい所が目立ちます。
他にも、やたら難しい言葉で説明をするオタクである父や、辛いものが苦手なアマラオ管理官など、内面では子供なキャラが多数登場します。細かく描かれており、言葉遣い・仕草(作画)などで表現しています。
これに対して、一人だけ明確に異なる人物が居ます。ハル子です。彼女は「大人」の反対で、「自分勝手」な人物として描かれます。
これらがどういうことなのか、エピソード毎に以下ご説明します。
エピソード解説:3話
学芸会の回です。
同級生のニナモリさんは学級委員で、親が市長です。更に、親の不正・不倫がスキャンダルになっていても動じていない、気丈で「大人」な姿勢を見せています。
ニナモリさんは主人公ナオタの恋愛にも冷めた態度を取っていました。(主人公ナオタは女子高生のマミミにも、ハル子にも態度をはっきりさせず、どちらもキープしています。現代ではどちらかと言えば子供っぽい・優柔不断と呼ばれる行動でしょう。)
しかしながら、ニナモリさんは大人っぽい言動をする反面、一箇所だけ子供っぽい姿勢を見せます。学芸会の舞台演劇を両親が見に来ることに、異常な執着がありました。そのために配役で不正を行うほどの執念を見せます。
主人公ナオタは、学芸会を嫌がっていました。基本的には子供である自分を嫌がるナオタは、演劇の配役を嫌がっており、練習もサボっています。こうして第3話は、学級委員のニナモリさんと主人公ナオタを比較しながら、大人と子供のシーソーゲーム的表現をしていました。
エピソード解説:4話
爆弾を打ち返す回です。全アニメの中でも、筆者屈指のお気に入りエピソードです。
この回はゾンビ化した父親や、ネルフっぽい基地など突飛な表現が目立つため、そちらに目が行ってしまいがちです。ただストーリーとしては、主人公の成長を描く分岐点になります。
主人公ナオタはバットが振れない男として描かれました。野球のバッターボックスで振れない男といえば以前は無能の代名詞でしたが、ナオタは周りの大人からの批判を気にせず振らない姿勢を貫いています。これはナオタの「大人ぶってる」冷めた姿勢です。
そんなところに、どうやら街に宇宙からの爆弾が落下してくる状況になってしまいます。ハル子はバットを振れないナオタに対し、バットの振り方を教えて、いざ爆弾の前に立たせます。(字面では意味不明ですが原作を御覧ください。)
バットを振れなかった「大人ぶってる」主人公ナオタは、いざ街のピンチになって:
兄ちゃん
という一言を放ってバット(厳密にはギター)を振り、爆弾を撃退しました。
これは「大人ぶってる」主人公ナオタに対して、その対極である「自分勝手」なハル子がバットの振り方を教えて、行動させることが象徴的です。ここまで自分では決断せず、行動しないことを大人の美徳としていたナオタに変化が現れ、第5話以降に繋がります。
エピソード解説:5話6話
関連があるため、最終戦である5話6話は繋げて解説します。
結論としては、「大人」を目指していた主人公ナオタが、「大人」を捨てる結末です。
4話で街を崩壊の危機から救った主人公ナオタは、思い上がって調子をこきはじめます。遂にはマミミをラブホに誘うほどの行動に出ますが、拒否されてしまいます。(大人の姿勢を辞めて調子をこく行動が、銃に弾を込める演出で挿入されています。)
※5話の戦闘で流れる曲 “Blues Drive Monster” は歌詞も「大人になれない」を表現した内容となっていますのでご注目下さい。
その後も第5話は色々あって決着しますが、総じて言えば「ナオタはマミミに認めて貰えなかった」と言えるでしょう。
- 大人を目指していたけど 認められなかった/バトルで救えなかった 主人公ナオタ
- 結局はタスク先輩を崇拝していたマミミ
マミミもナオタも共に大人を目指している点で共通している二人でしたが、こうした構図がハッキリして破局してしまいます。
この反発で、第6話前半で主人公ナオタは結局ハル子さんに泣きつきます。そして、学校を休んでハルコさんと一緒に放蕩の旅に出ます。ずっと冷めた大人を演じていたナオタが、大人を捨ててはじめて「自分勝手」な姿勢を見せます。
そこでアマラオ管理官が現れ、ナオタに人工眉毛を渡し、「大人になれ」と迫ります。(アマラオ管理官は人工眉毛が取れると子供のように弱くなる性質があり、人工眉毛が大人の象徴として描かれています。)
そして迎えた最終決戦。巨大な掌の上で主人公ナオタはアマラオ管理官・ハル子の間に挟まれます。
アマラオ管理官はこう語りかけます:
その女を信用するなと言ったろ。そいつは自分のことしか考えない奴だ。周りがどうなろうと気にさえしない女なんだ。 でもお前は違うだろ。 家族も友達も、あの女子高生のことも助けたいと思うだろ。当たり前のことだ。それが普通なんだ。 大人なら分かるはずだ。 こっちへ来い。その女の思い通りになるな。
これは今作のテーマである「大人」と「自分勝手」の二項対立で、「大人」を選んでアマラオ管理官の味方をしろと命じているシーンです。
確かに、話を通してずっとナオタは大人になることを望んでいました。しかし、ナオタはこの場面で「大人」を完全に捨て、「自分勝手」であるハル子の方に歩み寄ります。
背景の解釈は任せますが、最終的にナオタはアトムスクの力を偶然手に入れてしまいます。しかしその力を使うことはなく、ナオタは自分の一番したいことであった「ハル子への告白」を成し遂げます。
最後の結末はご存知の通りです。「自分勝手」を選んだナオタはフラれてしまい、ハル子は宇宙へ帰ってしまいました。これはどういう意味があったのでしょう?ここは解釈のしようが有ると思います。
結論
「子供を辞めて大人になりたい」と思う人間が多く登場する作品でしたが、最終的に主人公ナオタは大人を目指すことを辞めて、「自分勝手」な姿へ行き着きます。ただ、自分勝手な姿勢は必ずしも理想的な結末をもたらさないよ、というメッセージを伝えて終えと筆者は思っています。
この作品は単純に「自分勝手」を描いただけではなく、冷めた小学生が経験を積んだ結果その先にある概念として「自分勝手」を選んだところにカッコよさがあったと筆者は感じます。
ハルコの視点に立てば、大人を辞めて自分勝手に生きるにはそれ相応の力が必要だ、とも取れる内容です。
以上
改めて申しますが、フリクリは強いメッセージがあるにも関わらず、背景設定に気を取られて面白さに気付かない方も多い作品です。既にご覧になった方に、その魅力を改めて認識頂ければと思いこれを記しました。
また、それに留まらず、学校の同級生・先生など、リアリティある「子供」の表現力には眼を見張るものがあります。筆者は凄く気に入っています。
ちょっと踏み込んだ話題になりますが、ではこのハル子の「自分勝手」は、筆者が日頃から申し上げている “authenticity” ですか?と訊かれますと、NOです。
大切な人を犠牲にしたり、社会を滅ぼしてまで自分の欲しいモノを手に入れる姿勢は利己主義であって、authenticity の追究ではありません。Authenticity の理論とは、「自分が好きなモノを好きたらしめている背景」を壊してはいけないという前提がありました。ハル子が求めるアトムスクの力は、メディカルメカニカやフラタニティといった組織が脅威視しているからこそ魅力的なのであり、彼らを破壊するのは不本意なのではないか?と筆者は解釈します。