ストリーマーは私がとても気にしているジャンルですので、一度自分の中での定義について書いておこうと思いました。
導入
ストリーマーとは何でしょう?
まあ、どこかのライブ配信サービスでライブ配信をしたことがあれば字義上は「ストリーマー」です。たしかに私も今年共著で出した論文で:
ライブ配信のチャンネルに映像を配信するプレイヤーのこと
と表現しました。(註1)
ただ、これは syntax(統語)的・字義的な意味でのストリーマーです。それだとこれを書いている私も数回個人ライブ配信したことがありますから、ストリーマーに含まれてしまいます。
今回述べたいのはより semantic(意味論)的な「ストリーマー」の定義です。ファンの皆様や熱心なストリーマーご本人の方々が思い浮かべる2022年現在のストリーマー像に近い定義は何でしょうか?たぶん、私のようにブログを書くことをメインとし、実験的にしかライブ配信をしたことが無い人間は像から外れると思います。特に私は自分のことをストリーマーだと意識していませんから。
本稿は意味論的に現代のストリーマーの像をハッキリさせた上で、私の今まで申して来た:
- コミュニティ的とはなにか
- Authenticity が大事
といった理論とストリーマーがどう繋がるのかを明確にする内容です。勿論 “コレが正しい” という訳ではないのですが、自分の視点で理屈をどう組み立てているかを哲学や倫理学の視点から進めます。
[上記論文で用いた「ストリーマーの例」。
がくとさんのチャンネル
から。]
ストリーマーの実態
まずは何事も、現状を具体例で確認することが大事です。ストリーマーと言われて、人類はなにを思い浮かべるでしょうか?たぶん YouTube Live や Twitch といったインターネットサービスでゲーム実況ライブ配信をしている人を想定すると思います。
こうした超有名ドコロだけでは例とは言えないかもしれません。他にも私の知っている他の方を挙げましょう:
たぶん私と面識のあるストリーマーの方は1000人くらいいらっしゃって、みなさま全員を挙げられないのが申し訳ないですが、お許しください。
こうした方々にどういった特徴があるでしょう?なんとなく無垢で良い人が多く、ウソがつけない空気があるでしょう。ファンの方も熱心で、ファンの輪を大きくする意気があると思います。例えばファンアートを作ったり切り抜きを布教したり、文化を大きくするという表現が似合うでしょう。
現代のストリーマーはアイコンやロゴがしっかりしており、ブランド構築がされています。また、収益化して機材を刷新していく向上心も普遍的な概念でしょう。10年ほど前であれば、顔出しをせず・収益化しない像が一般的でしたが、現代は少し異なります。
一方現代では、 RTA in Japan や VCT (註2)といったイベントが強力なライブ配信コンテンツだとは思いますが、「ストリーマーか?」と言われると違うと思います。本稿では上述のストリーマー群を包括しながらも、このイベントとの差を説明できる良い定義を考えたいです。
[「ストリーマーとは具体的に何か?」と訊かれた場合、こうした画像のお名前を浮かべる方が多いと思います。
こちらの動画
から]
ストリーマーの定義
今回「ストリーマー」の定義とは、私は以下のように表します:
- リアルタイムの双方向メディアで、好きなことを追求する個人
ここからは厳密に意味合をハッキリさせるため、この単語一つ一つを確認して行きます。
双方向メディア
当たり前かもしれませんが、ストリーマー (streamer) という英単語は「livestream をする人」のことなので、ライブ配信をしていることを想定しています。上で述べたように YouTube Live, Twitch を使っているクリエイターをイメージするでしょう。
この点で「動画専門の YouTuber」は除外します。リアルタイムに今起きていることがインターネットに流され、そこにファンが書き込みを行ってクリエイターが反応し、場合によってはファン同士が交流することがライブ配信の世界です。
現状、インターネットのライブ配信サービスが舞台になります。
好きなこと
「好きなこと」、この言葉が重要です。
ストリーマーを思い浮かべるとき、だいたいゲームをしている人を想像すると思います。
ではストリーマーはなぜゲームをしているのでしょう?根源的には「好きだから」やっているはずです。学校で教わってゲームをしている訳でもなく、一族のゲームを継いでプレイする定めにある人もいらっしゃらないでしょう。
それでは「好き」とは何でしょう?現代では「好きなこと」は自分のアイデンティティと関係します。そしてアイデンティティはコミュニティと関係します。
例えば筆者の私はスマブラ勢です。スマブラが「好き」でトーナメントに出場し、その後大会運営をしていましたので、私の Twitter プロフィールにもその痕跡があります。私は自分のアイデンティティを「スマブラ勢」というコミュニティの一員だと考えています。ゲーマーはこういう方が多いでしょう。
対照的に現代では家のこと(例:藤原家, 親が少納言)とか階級(例:従五位下)とかをプロフィールに書く人は少ないでしょう。現代人にとってアイデンティティとは権威的社会地位では無く「好きな世界で何をしたか」です。(註3)
[現代人のプロフィール欄(
ご本人 Twitter
)。ストリーマーではなく esports アスリートですが、「この大会で勝ち・このチームを作り・好きなモノ」という情報が書かれています。]
ここを詳しく説明しますと1記事分になってしまいます。この「好きなこと」に関して、「心の底から好きな度合(= Authenticity)」というテーマで以下の記事でしっかり書きましたので、そちらを御覧ください(註4):
個人
個人とは、自由であり法人ではないということです。当たり前のような内容ですが、つまり自分の意志を自分で決められるところがストリーマーの特徴という意味です。
自由でないとは何でしょう。例えば世の中には企業の公式ライブ配信番組に出演する MC の方・タレントの方がいらっしゃるのですが、たぶんこうした方々はストリーマーとは呼びません。慣習的にもそう呼ばないですし、MC とストリーマーが異なるという視点は直観にも合致することでしょう。
番組内容や台本というモノはなんらかの企業(例:ゲーム会社・デバイスメーカー・その制作会社)が作成し、MC はそれを円滑に進める役です。番組内容・アピールしたい点・扱うゲームタイトルを MC が決めることは出来ません。私はこうした「ライブ配信に出ているけれども意思決定権が自分にない人」をストリーマーの枠に入れません。
実際に2015年くらいですと、人間が一人で行う形式のゲーム実況ライブ配信でも事務所・制作会社が台本を用意し、配信の尺もスタッフが決定することが結構ありました(註5)。現代のストリーマーはここと一線を画すと私は認識しています。
この視点からイベントは個人では無いため、上で問題提起した RTA in Japan や VCT はストリーマーではないということになります。
他の例外も彫り進めます。
兄者弟者
さん, “
momochoco
” のようにコンビでチャンネルをされている方もいらっしゃいますが、これは「個人」でありストリーマーに入るでしょうか?私としては個人であると考え、ストリーマーに含まれます。これはご自身のチャンネルで行うことが自分達で決定できるからです。
これが私の考えている「個人」の概念です。
[画像は
国立西洋美術館
より。「個人 = 自由」は自明ではありませんが、私はストリーマーを表現者だと想定しています。19世紀終盤から絵画は教会・王侯貴族といった権威(= 他者が決定すること)を脱ぎ捨て、独自の技法で自由なテーマ(= 自分が決定すること)を届けるようになりました。この芸術観が私のストリーマー像です。]
補足
一方で、「個人」と言うと「個人主義」というネガティブな意味を連想する方もいらっしゃると思います。個人主義にも色々ありますが、例えば自分の数字(= 再生数・フォロワー数)を増やすことだけを求めることがあるでしょう。炎上商法や機密情報の暴露、他者叩きといった手法を用いる人も居ます。
数字が増えること自体は良いことですが、数字至上主義になることは肯定できません。本稿ではストリーマーは好きなこと(= authenticity が高いこと)を扱う個人としています。ストリーマーは自分のアイデンティティに関わる内容を扱い、自分がそれを好きだと思った背景であるコミュニティに還元して行くべきです。こうした意味で「個人」もアイデンティティやコミュニティと繋がります。
こうした視点も書くと1記事分になってしまうので、過去に書きましたこちらを参照します:
この文の中で最後に、「コミュニティ」とは大事なこと・好きなこと(= authenticity が高いモノ)が地続きである集団と触れています。「ストリーマーは個人」とは定義していますが、「好きなこと」が関わることで社会的・コミュニティ的になっていくことも認識されてください。
こうした意味で「殻に籠もってしまう」という意味での個人主義も「好きなこと」には含められないと私は捉えています。
これらをまとめて、「個人とは自分の意志を自分で決められる人のこと」と申す次第です。
結論
というわけで、ストリーマーとは:
リアルタイムの双方向メディアで、好きなことを追求する個人
でした。単語ごとの解像度が上がりましたら幸いです。
ちょっと補足になりますが、この定義を更に一言にすると、ストリーマーとは「自分のことをストリーマーだと思う人」と私は日頃表現しています。(上でも「好き」とアイデンティティが繋がっている説明を申し上げました。)
例えば2015年周辺ですと “ゲーム実況者” というモノは足がかり的立ち位置で、ゲーム実況をすることで名を売り、番組 MC になったりタレントになったりが目的という空気がどこかにありました。またはその後も暫くストリーマーとはプロゲーマーのセカンドキャリアでした。
ただ、今は情勢が変わったと感じます。現代では「有名ストリーマー」という存在は皆の憧れであり最終目標でしょう。ストリーマーの方は自分がストリーマーだと思っています。
この理屈では、 Laz さん, ぱせりまん さんのように現役競技者を続けながらライブ配信もなさっている方がストリーマーかどうかは、ご本人の自己認識(アイデンティティ)がどこにあるかだと考えます。ご自身がストリーマーだと思うならばそうでしょうし、ストリーマーではなく競技者だと思うならばそれも正しいのでしょう。
勿論、私のように実験的にしかライブ配信をしない人も・普段は動画で活動している人も・イベントや番組も・ライブ配信を足がかりにして出世を目指す人もダメな訳ではありません。ライブ配信というツールは様々な使い道があります。それでも今回、私が感じる semantic(意味論)的ストリーマーというのは「好きなことを追求する個人」というイメージが伝われば良いなあと思っています。
以上
最近は
山野さん
をはじめ「VTuber の定義・分類」といった議論も盛んで、私も追いかけています。私は「VTuber とはバーチャルなストリーマー」だと表現しています。ただ、そんなにこだわりはありません。最近の議論を見ていて「私の定義なんかよりもっと良い定義あるだろうなあ」と感じています。
しかしこのように VTuber の議論があるところに「ストリーマーとはなにか」という視点も紹介しておこうと思いました。
最近分析美学をかじったので、このへんは「正しいかどうかが重要ではなく、いろんな人が定義をしようと試みて議論が活発になることが大事」だと思っています。より厳密な定義・表現に近づけるからです。ストリーマーの定義についても議論が増えたら良いなあと願っています。
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配信技研, 2022,『国内ゲーム実況ライブ配信におけるチャンネルのコミュニティ的性質の統計分析』 ↩︎
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RTA in Japan はとても有名な恒例イベントです( ウェブサイト )。ライブ配信でその様子を多くの人が見守ります。VCT は VALORANT Champions Tour の略であり、5v5 の FPS タイトルである “VALORANT” を扱ったプロシーンです( 日本向けウェブサイト )。今年の夏はさいたまスーパーアリーナを貸し切っての決勝戦が行われ、そのライブ配信も大盛況でした。 ↩︎
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こうした私の考えはマッキンタイアの理論を基にしています。参考:マッキンタイア,『美徳なき時代【新装版】』みすず書房 ↩︎
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Authenticity についてはチャールズ・テイラーの理論を基にしています。上のマッキンタイアと並びコミュニタリアンという派に分類されます。参考:チャールズ・テイラー,『〈ほんもの〉という倫理』産業図書 ↩︎
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アーカイブ保存期間の関係で余り証拠事例が残っていませんが、現代でも声優さんのようなタレントが個人ゲーム実況を番組形式で行うことがあり( 例 )、これが当時よくある方式であったと私は感じています。 ↩︎