儒学は日本や東アジア圏に広まっている倫理規範です。古い価値観の代表例として今は扱われますが、ゲーマー特に大会運営やストリーマーの方々が生きて行くにあたり参考になると思った内容があったため、布教も兼ねてここにまとめます。
前提
はじめに断りますと、私のいつもの投稿は「ゲーマーに読んでほしい!」というものになっていますが、今回は完全に私の趣味です。
では「なぜ書くのか?」と問われますと、客観的に見て私の理論を体系的に順序立って説明したモノを急遽発見したからです。むしろ「いずれ私の過去の投稿を順序立ててまとめないとなあ」と思っていたところに、それをピッタリ表現した既存の著作を発見したため、利用する次第です。そんな書物『大学』ですが、有名な作品ですので私も10年以上前に読んだことがありました。皆様も:
- 本末転倒
- 維新
- 修身
- 切磋琢磨
- 当たらずと言えども遠からず
といった表現をご存知であらば、それは『大学』が身近であるということです。
『大学』について
さて今回のテーマは儒学の経典『大学』です。細かい説明は省きますが、紀元前500~100年ごろに書かれたと言われていますが定かではありません(註1)。ひとまず紀元前ではあるでしょう。
前提として儒学というのは:
- 親・先祖・年上を敬え!
- 礼儀が大切!
- 謙虚が一番!
- 仁義を重んじる!
こうした倫理的規範です。「親から貰った身体なのだからピアスをあけるべきではない」といった概念も儒学の別作品が出典です。
儒学は自分を律する道徳でありながら、「みんなが自分を律すれば国は丸く治まる」という政治理念を目的としたものでもあります。どうでしょう、日本社会に通づるところが有るのではないでしょうか?
儒学というものはそもそも江戸時代は国に指定された学問でしたので、有名な『論語』をはじめ、今回の『大学』も江戸時代の武士は全員が暗記していたはずです(原点は漢字で1700文字強しかありません)。明治以降の教育にも大きな影響を残しました。 私は事実上の日本の宗教だと思っています。そうでなくとも、「昭和の価値観」や「古い価値観」と言うときのそれだと言われれば大体の方は納得されるでしょう。
[昔はよく見かけた二宮金次郎の像
出典
。この人が手に持っている書は『大学』。]
今回の提案
『大学』とは、こうした歴史的背景があるため、この世の治め方の理想像として語られます。特に忠誠心や修身を重視しています。私も高校生の時に読んだ際はそのように感じました。
しかし、今改めて読み返すと違った印象を受けました。「人間の趣味活動はどうするべきか」に共通する心得のように受け取れました。簡単に言えば「現代のゲーマーはどう生きるべきか」に通ずる理論です。特に他者と関わるゲーマー:大会運営やストリーマーが参考にしても良い理論だと感じています。
『大学』は見事に論理立っており、私の主義を説明することに持って来いだと感じました。元々私が漢文が好きだったこともあって、布教を兼ねて『大学』の流れを追い、その上でゲーマーの生き方とどう関わるのか説明します。
以下、実際の大学の中身について、ほぼ書いてある順に述べます。
序盤
『大学』序盤では本書の対象・範囲と、大まかな方向性を明らかにします(このあたりは「三綱領」「八条目」と呼ばれます)。
まず、この『大学』は天下を治める人のための理論であるという説明があります。その上で「本末」が重要だと説きます。
つまり Goal が大事という意味です。まずは目標を立てて、手段やKPIは後から考えよということです。そうすれば真理に到達できると言っています。「本末転倒」の本末はここから来ています(註2)。
私も大会運営では同様のことを主張して来ました。「目標やコンセプトを先に決めて、ルールやデザインはそれに合うように決めるべきだ」といった具合です。過去のブログでは:
これらで述べています。
続いて『大学』ではこの次に、動くべきことの順序を説明しています。パートを引用して翻訳しますが:
理想の徳を天下に広めようとする者は、まず国をちゃんと治める。国を治めようとする者は、家族を整える。家族を整えようとする者は、自分の身を修める。身を修めたい者は心を正しくし、そうしたい人は意志を誠にする。そのためには格物致知をしなければならない。
天下を治めるためには家族を治め、更にそのためには自分を磨こうという理屈が続きます。自分を磨くには「格物致知」です。後述しますが、実際に手を動かすと知に至るという考えです。
[『大学』で説明される内容(= 八条目)の順序、図解。本文に合わせて用語を少し補正。正心・修身は本文では触れない。]
本書『大学』は、格物致知とは何か?→ 誠とは何か →身を修めるとは何か → 家族とは何か → 国を治めるとは何か、のように枝葉から始めて抽象的概念に向かって順番に記されています。
格物致知
格物致知とは具体的に何でしょう?これについてはこの1000年間専門家のあいだでも意見が割れて来ました。
私は「自分で手を動かし、現場を経験することで、知識は仕上がる」という解釈を採ります。有名な朱子(中国, 紀元1100年くらい)は:
天下にあるモノの理をきわめて、知識を推しきわめなければならない
としています。これはなんだか抽象的でよく分かりません。のちに荻生徂徠(日本, 紀元1700年くらい)はより解釈して「六芸」(= 礼儀・音楽・弓術・馬術・文字・算数)をやらねばならないという意味だと述べています(註3)。つまり、政治や何かの運営をするのであれば、運営ばっかりやっていないで馬術や算数もやりなよ、という解釈です。
他にも朱子に対立した王陽明(中国, 紀元1500年くらい)も居ますが、彼も結局は行動を重視した説です。『大学』ではこのあと「家」の話も出て来ますが、方向性としては全体的に身近でローカルなことを重視しています。「マネジメントばっかりやっていないで、自分も手を動かそうね」という感覚は私もけっこう好きな考えですので、今回はこの解釈を採りました。
現にコミュニティ大会の運営をするゲーマーと企業イベントの差は、実際にゲームで手を動かしている人間が有るか無いかだと思います。よく企業イベントが炎上した際に「ちゃんとゲームやってる人が運営して欲しい」という文句が出ますが、これこそまさに「ちゃんとゲームをする = 格物致知」ということなのだと思います。
誠について
「誠」とは自分磨きパートで登場する概念であり、『大学』で学ぶべき基本中の基本です。上述の王陽明は、
誠は『大学』のはじめの教えである
と述べました(註3)。
それでは、「誠」の定義を見てみましょう。ここでは:
誠とは自分で自分にウソをつかないことである。
と述べています(註4)。このように、実は「誠」の定義はハッキリとはしていません。
儒学で「誠」と言えば、たいてい忠誠心や親孝行という意味で語られます。例えば新選組の旗に書いてあったり、道場に毛筆で掲げられていたり、マッチョ的なイメージが皆様にもあるでしょう。こうした雰囲気もあって、『大学』でも誠はそのように捉えられがちです。
しかし、漢字を先入観で理解するのは危険です。例えば「徳」という字は、古いテクスト『詩経』では男女の間でのやさしさという意味で用いられます。道徳という意味ではありません(註5)。
やはりここは『大学』の原典に帰りましょう。上の続きを意訳すると次のようになります:
(誠とは)自分自身が心地よく満足するものと言う。だから君子は独り自分だけが知っている境地にウソをつかないのである。
(中略)他人はよく自分のことを見ている。そのため心の中の不善を隠して、善であるかのように振る舞おうとしても意味はない。だから「心の中が誠ならば外に現れる」と言うのである。
(註6)。たしかに「忠誠心」はここで言う「誠」に当てはまるでしょうが、それは当てはまる一つの要素に過ぎません。独りで居る時も・他人の前で居る時も自分自身にウソをつかない心というのは、様々な方向性があるでしょう(註7)。
新選組の「誠」の旗や、「忠誠心」のような意味は自己犠牲的なイメージを持ちそれに限ってしまいますが、もっとリベラル(= 自由的)で楽天的な意味もあって良いはずです。人前に出しても恥ずかしくない自分の熱中したことに真摯になる、といった意味も否定しきれないでしょう。
大胆な解釈ではありますが、『大学』で言う「誠」とは私のよく用いる authenticity という概念に近いと言えるでしょう。過去のブログを貼ります:
Authenticity についてざっくり申し上げます。このブログでたびたび登場する概念です。
ゲームの大会でも視聴者や参加者が「良い大会だなあ」と言うモノと、「なんか企業色が出すぎているなあ」と感じて違和感があるものがあります。もしくは、ライブ配信で純粋に面白いストリーマーと、ビジネス色が出すぎてヤラセっぽいものがあるでしょう。これらの差は authenticity の有無です。ゲーマーらしい真摯なものは authenticity が有るものであり、ヤラセ感が強いものは authenticity がありません。
この視点を日本語で言うとゲームに対して「誠」があるかどうかだとすれば、直観にも合致するでしょう。
では『大学』の「誠」と authenticity の繋がりを申し上げます。なぜヤラセ感は良くないのかと言えば、主催側がなにか自分自身にウソをついているからです。Authenticity が無いものは誠ではありません。
他にも例えば炎上商法や転売ヤーは「誠」ではありません。これは『大学』的に言えば、上述の「本末」(= Goal と手段)を転倒しているものであり、後述の「家を整える」行為でもないからです。Authenticity でも、転売ヤーのように他者を傷つけるものは否定しています。
こうした解釈で、誠と authenticity は合致するのです。
家について
自分磨きをした後は、家を整えよと述べています。『大学』は基本的に「家」つまり家族をよく対象に書いています。
自分の家を整えるには、自分の身を修めなければならない
この表現が繰り返し登場します。しかし、この「家」(= 家族)という概念も注意して見なければなりません。一見「家」と言われるから、親孝行や旧態依然とした社会システムのことを想起しがちですが、この『大学』が書かれた時代を考慮すれば現代でも通用する理論になると私は感じました。当時の「家」は現代の「コミュニティ」に近いでしょう。
紀元前という時代は核家族ではありません。家と言えば、祖父母や親の兄弟、従兄弟・再従姉妹を含め、多くのメンバーが居ることが想定されます(註8)。三族・九族という概念が『書経』にも登場します。
私の解釈ですが、当時の家とはより広く、ローカル社会程度の大きさを持つものです。ローカルな狩猟・牧畜・農耕・治水コミュニティのことであり、『大学』が述べているのはこうしたコミュニティでちゃんと活動せねばならないという意味です。
そのため「家」に関する理屈はゲーマーの社会・コミュニティでも通用するでしょう。現代ではゲーマーが家族とゲームをするということは少ないですが、2500年前の家族の役割を今はゲーマーが Discord や Twitter/X で担っているのだと思います。
昔の人は姓が家を表し(註8)、アイデンティティや出身地を表しました。しかし今は時間が経ち、姓はそうした機能を持たなくなりました。現代人のアイデンティティは、どのゲームタイトル出身かとか使用キャラクターがなにかとか、誰のファンをやっているか等でしょう。
実際に「コミュニティ」の意味が地元の集団から趣味の集団へ変遷したことについては、かつてのブログがあります:
ゲーマーが何かを運営するとき、それは大会であれチャンネルであれ、はたまた自分の友だちまわりの Discord サーバーであっても、「コミュニティが重要」ということは言うまでもないでしょう。逆に言えば、スポンサーのことや視聴者数のことばっかり考えているゲーマーはどこか冷めた目で周りから見られます。
そもそもコミュニティ理論と authenticity は繋がっているものですから、自然に結びつくものです。むしろ、『大学』という紀元前の書物の理論が、20世紀以降の西洋コミュニタリアン思想に類似しているところは驚くばかりです。
自由について
家の議論が終わったため、ここからは国の議論です。『大学』ではここまで述べた「誠」を持ち、家を整えることができるならば、国も治めることができるとしています。では、国はどのように治めるのでしょう?
「絜矩の道」(= 「モノサシの道」という意味)が重要だと説いています。みんなが自分の心(=絜矩, モノサシ)に照らし合わせて嫌だと思うことは他人に対してやらなければ、国がおさまるという考えです。
これは儒学のほか作品では『論語』の「己の欲せざる所は人に施す勿れ」や、「忠恕」にも通ずる概念です。
「絜矩の道」はJ.S.ミルの “自由” の概念に近いと、昔から言われて来ました(註9)。J.S.ミルの自由とは「誰かを傷つけなければ好きなことをして良い」といった定義です。つまり、現代でも国家を論ずる際によく用いられる “自由” の定義に近いです。
国家の成立条件として「自由」が必要であるという発想は、同時代の思想家と比較すると斬新な視点だったと感じます。
「自由」はゲーマーのコミュニティに通ずるところがあります。ゲーマーは基本的にひとりひとりが好きなことをしており、authenticity を持っています。一方でゲーマーのコミュニティは余り炎上商法や転売とった他者を傷つけるものと相性はよくありません。ここは本文で見てきた通りです。
おカネについて
『大学』は最後におカネの使い方について述べています。
儒学は国を治めるにあたり、商売・経済・おカネを全体的に否定していたというイメージをお持ちの方もいらっしゃるでしょう。実際に『管子』では「士農工商」(= 商人が低い)と言ったのであり、儒学を国家の学問に指定した江戸時代は慢性的なデフレに陥りました。『大学』でも確かにおカネを否定しているところがあります。
日本の「おカネは卑しいもの」という考えは今も根強く残っており、私も武道でもよく出会うところがあります。ゲーマーの間でも “嫌儲” という感覚は今も残っているでしょう。儒学の感覚が日本の宗教として根付いている顕れだと思います。
しかし原点の『大学』を見てみると、必ずしもおカネの全てを否定しているわけではありません。厳密にはおカネを目的とするのはダメだけれど、何か目的があっておカネを得ることは否定していません。現代の法律で言う営利活動(= 儲けた利益を出資者に配る活動)がダメなのであり、非営利の活動は否定されていません。
原文の訳を紹介します:
君子はまず徳を大事にする。徳があれば民が集まり、民が集まれば国土を持つことになり、国土があれば財を持つことになり、財があれば使い道が生まれる。
(中略)主君のところに財が集まると民は離れ、逆に民のところに財が分散すれば民は集まる。☆
このように述べています。(このパートは上の「絜矩の道」と連続しています。)この微妙な表現加減が重要です。
たしかにこの後、特に『大学』を締めくくる最終段落では、三度も繰り返し「徳が本であり、財産は末」という趣旨を述べています。一見すると財産・利益、つまり商売やおカネ全体を否定している印象を受けるのですが、現代人の私からすると全否定ではありません。
☆ の文では、おカネ自体を否定してはいません。民に行き渡るようにすべきだと言っているのです。
また、「財があれば使い道が生まれる」という表現も身に染みるところがあります。これはコミュニティ大会運営ならばすかさず感じるところがあるでしょう。大会を開くことで参加者に活躍の機会が生まれ、結果的に参加者にスポンサーや配信活動のおカネが入るのは理想的なことです。また、大会規模が大きくなって新たな機材を買えたり、より豪華な会場を予約できるようになることは喜ばしいことです。
これは大会運営が大会を開きたいという目的/Goal(= “本末” の本、もしくは authenticity)があって、その後からおカネが入って来ることの理想像です。こうした『大学』の金銭感覚は、現代のゲームコミュニティの実態にも即しているでしょう。 こうした視点は過去のブログでも紹介しています:
そのため、私は『大学』では非営利の金銭活動を否定していないと解釈しました。むしろゲーマーが活動するにあたって用いるおカネの使い方に近いと感じます。
まとめ
こうしておカネについて述べたところで、『大学』は短い全文を締めくくります。
というわけで『大学』の趣旨を私が解釈したようにまとめると、
- Goal が重要
- 自分で手を動かすこと
- Authenticity を持つこと
- コミュニティを重視すること
- 自由を理解すること
- 非営利的なおカネの使い方
となります。過去に私が記したブログ投稿を多数紹介できたことからも見えるように、『大学』は私の主義・理論を体系化したものとさえ言えるものです。
以上
以上、『大学』を前から順に要約して本文は終了です。『大学』自体はすごく短い作品ですので、興味を持たれた方はぜひ角川ビギナーズクラシックスで解説付きのものを読まれることをオススメします。
この要約をご覧になりますと、概ね全体がゲーマーコミュニティの動き方理論に適しているとご理解頂けるでしょう。結局人間社会の理想像や、親しい人間がいっぱいいる時に丸く治める方法というのは、2000年経っても変わらないということなのだと思います。
一方で人間をルールで確実に治めるならば、それこそ儒学を否定した韓非子の理論(= 法律)や、西洋的な法哲学の理論が適しているでしょう。ゲームでも公式大会や大規模な企業イベントなどは客観性が必要ですから、その方が向いていると思います。しかし、より人間的で人情的な世界、つまり多くのゲーマー消費者社会では、『大学』や儒学のやり方に一定の親和性があるのだと私は感じました。
むしろ誰がこれを書き、なにを目指していたのでしょう?謎です。『大学』は成立以降、朱子が現れるまで1000年以上全然注目もされていませんでした(註10)。作者は誰であり、何を願っていたのか、今も分かっていません。
こうしたロマンを魅力的に思って頂けるならば、是非ご自身でも漢文の書を読んで頂ければと思います。予想外にも現代日本に影響を与えているものが多いと感じるはずです。それこそ角川ビギナーズ・クラシックスから1冊どれでも良いので、概要を見て興味をひかれたものがオススメです。
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金谷 治『大学・中庸』岩波書店, p.23 ↩︎
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本末転倒はここが出典とも言えますが、そもそも字の形として「本」は木の幹を表し、「末」は木の枝を表しているので、そのまんまと言えばそのまんまです。 ↩︎
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矢羽野 隆男『大学・中庸 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典』角川ソフィア文庫, p.74 ↩︎
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牧角 悦子『詩経・楚辞 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典』角川ソフィア文庫, p.42 「有女同車」 ↩︎
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漢文の訳は様々な解釈がありますが、今回は特に以下の書に基づいています:矢羽野 隆男『大学・中庸 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典』角川ソフィア文庫, p.74 ↩︎
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朱子はここで言う「独り」とは、孤独で部屋にいる時といった意味に限らず、衆人の前で対峙している際も含まれると解釈しています。宇野哲人『大学』講談社学術文庫, p.56 より。そのためここではこういった解釈にしました。 ↩︎
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矢羽野 隆男『大学・中庸 ビギナーズ・クラシックス 中国の古典』角川ソフィア文庫, p.108 ↩︎
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金谷 治『大学・中庸』岩波書店, p.26 ↩︎