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Jul 11, 2020 - review others

『NARUTO』ストーリー考察

『NARUTO』は15年間週刊少年ジャンプで連載されていたマンガですが、筆者はこれを連載で読み続けていました。しかし、今コミックスを買って全巻読み、ひとまとまりで見た時にわかった視点がありますので、それを書き残します。

『NARUTO』は一見、仲間・友達を大事にし、ナルトとサスケのライバル関係を描いたように思われます。(以下『』を略します。作品の場合は NARUTO と記し、登場人物は ナルト と記します。)実際、連載のみで読んでいた当時の私はそう感じました。おそらくですが、当時流行っていた他の作品に私が影響されていてフィルターがかかっていたり、アニメ・劇場版の NARUTO では「仲間を大事にする」がCMで連呼されたりして、私が混乱していたのだと思います。

しかし原作では余り「仲間」「友」という単語は登場しません。ここで筆者は「信じる」「繋がり」がテーマなのではないかと思いついた次第です。それならと調べて見ましたが、NARUTO の考察で余り「信じる」「繋がり」について述べているものが余り見当たりませんでした。

NARUTO は能力バトルマンガですので、話が進むにつれ能力のインフレだったり、穢土転生という術の理不尽さ・千手柱間の人格へのツッコミ・ネットスラングなど色んな要素が目についてしまいます。例えば筆者は NARUTO を連載でずっと読んでいたため、当時は終盤の忍界大戦から決着までが長すぎると感じました。(断りますが NARUTO の作者を指す場合は岸本先生と記し、「筆者」は私のことです。)巻き添えにしますが、オランダのスマブラプレイヤー Mr.R もそう言っていました。しかしテーマに気付くと、終盤にはキーとなる描写が散りばめられており、岸本先生が言いたかったことを緻密に表すにはこのくらい描かないといけないのだろうなあと感じました。

ちなみに筆者は『NARUTO』をマンガしか読んでいません。つまり解説書や岸本先生の発信を見ていません。純粋に作品の中を見て考えた内容なので、もしかしたら岸本先生がどこかで正式に発信している内容とかぶるかもしれません。筆者としては NARUTO を通しで読んだ当然の感覚を書いており、余りひねりのないストレートな考察になっています。「へえ〜」と思われるよりは寧ろ、他に考察を書きたい方が前提として参照頂けるような見方を想定しております。

全体

NARUTO は信じる・託すことがテーマとなっていると考えています。そのためにまた繋がりという概念が大事になります。

上で NARUTO は「信じる」「繋がり」と比べると「仲間」を重視していないという筆者の意見を書きました。これは決して仲間を軽視しているわけではないのですが、作中では「仲間を守る」という意志はそこまで成就しません。「友であれば損得勘定抜きで絶対に守る!」という動きも見せません。むしろ世界観的に、亡くなる仲間が多いです。そのため、戦乱の時代の中で大事な仲間に精神的に依存しているという概念が「繋がり」で表されています。
この作品は、戦いの中で仲間・友情至上主義なのではなく、どうしても他人に精神的に依存してしまう人間を描き、それとどう向き合って行くかを描いたのだと考えています。

NARUTO は能力バトルマンガですが、ただ強い術を持った者同士の戦いはそこまでページを割いて描かれず、何かしら「繋がり」に関わる者や「信じる」ことに関わる者の戦いがメインになっています。

信じる

作中では「信じる」という表現は「託す」と同義で登場します。つまりこの「信じる」とは、嘘つきor正直という意味ではなく、仲間・次の世代に自分の意志を託すという意味で用います。特に自分に出来ないことを仲間・後輩に任せる時です。

例えば45巻のペイン戦で、火影のツナデは相談役の老人2名は託す能力が無いとつっかかっています。三代目火影ヒルゼンやチヨバアに有って、ダンゾウや相談役2名に無いものは、他の者(特に次の世代)に託す「信じる力だ」と言っています。45巻のこのパートをより詳細に見ると、「信じる」「託す」とはかつて初代火影が今の現役世代に里を託したように、次の世代を子供扱いせずに未来を信じるという意味です。他にも「火の意志」という言葉が抽象的ですが何度も登場します。これは初代火影にはじまり、代々の火影や里の者たちに連綿と受け継がれている思いです。

他にも、木の葉隠れの里を作った千手柱間は72巻で:

オレ達の生きている間に出来ることは知れてる。だから託していかねばな… 先のものがやってくれる

と言い、マダラも最期これに同意しています。この流れでナルトvsサスケの最終決戦が始まると、蚊帳の外になってしまった六道仙人はカカシ先生に「ただ信じてやるのだ」と言います。未来がどうなるのか、次の世代の者を信じて託すことの重要性が、ところどころで垣間見られます。個人的なポイントですが、アスマ先生がシカマルに将棋をしながら「玉は里の子供たち」だという主張を伝えるシーンがあります。ここは連載で読んでいた際は「この自己主張要る?」と疑問でしたが、「信じる」「託す」の文脈で考えると本筋に当てはまる内容でした。

ただ、この作品では他者を信じられなかった人物が何名か出てきます。その象徴がうちはマダラ・うちはオビトとなっています。絶望してこの世を消そう(無限月読にかけよう)とする上に、みんなと協力するのではなく自分たちだけで目的を実現しようとします。(暁メンバーはマダラ・オビトの協力者でしたが、メンバーへ無限月読の説明をしていませんでした。)
ナルト本人も、作中で一度この状態に陥っています。ナルトは53巻に滝と向き合い「自分を信じる」という境地に至っています。この境地が暴走して「この戦争は全部オレ一人でやる」と言い始めます。するとここで穢土転生されたイタチが登場してナルトと対話し、諭されたナルトは過ちに気づきます。自分独りでは駄目であり、先輩後輩や仲間を信じることで、自分ができないことも補い合いながら進むことが大事であると描かれています。

同様にラスボスである大筒木カグヤは、その飛び抜けた能力が目に付きますが、ストーリーの構造上は「信じる」の対極として描かれました。この作品では子どもたちを信じて意志を託すことが主軸になっていますが、カグヤは息子たちを自分からチャクラを奪ったものとして憎んでいました。またそもそもチャクラとは、69巻でうちはマダラが:

六道の広めたチャクラとは本来 ``繋ぐ’’ 力のことだ

と述べています。70巻では六道仙人ご本人から同じ説明を受けます。チャクラとは本来人を「繋ぐ(後述)」力であったのに対し、カグヤはチャクラを独占して自分だけの戦闘力に使おうと思っていました。これらが、信じるの対極という所以です。

このように「信じる」という単語が作中の重要な軸になっています。ただこの単語は「仲間」や「友情」と混同されやすい言葉です。例えば作品ではカカシ先生の:

仲間を大切にしないやつはそれ以上のクズだ

というセリフが目立ち、ここから NARUTO では「仲間を守る!」といった意識がテーマであると考えられがちです。しかし、66巻ではこの言葉は「仲間の思いを大切にしないやつ」という意味であったとより詳細な解釈がされています。

繋がり

「繋がり」はこの作品で全ての解決策であり、全ての問題原因として登場します。
繋がりがある相手には信じたり託したりすることが出来ます。一方で繋がりのある友・親族が死ぬと登場人物の心にダメージが入り、入りすぎると人格が歪む者も現れます。作中では「繋がり」は「つながり」と表記されることもありますが、登場頻度が高い表現です。

例えばサスケは力を求めた結果、26巻で一度里を抜けナルトとの「繋がり」を断ち、(他者を信じない独りよがりな)大蛇丸のところへ行きました。その後サスケの人格はどんどん歪みますが、43巻イタチとの決戦で久々に「繋がり」を実感します。直後に仮面の男(オビト)にあれこれ吹き込まれて再び「繋がり」は歪んだ形で形成され、復習の人間に磨きがかかります。この間のサスケのチャクラは「冷たい」とカリンからもサクラからも形容されています。そして徐々にダンゾウ戦やカブト戦を経て知っている情報が増え、サスケは考えを改めて行きます。最終的には65巻にて過去の火影たちを穢土転生し「里とは何か」を尋問しました。

66巻でサスケが木の葉隠れの里を守ると決意し、軍に合流して「火影になる」と発言した際はかなりインパクトが強かったです。連載で読んでいた時は話が飛びすぎでしょと思っていました。が、コミックスで読んでみると順序だってここまで来ていることが見えました。サスケは「繋がり」を失った人物として登場しますが、自身にとって最大の繋がりであったイタチ(穢土転生)の言葉を直に訊き、イタチの思いを託された結果、里を守るという結論に達しています。繋がりの有無で心持ちが変化する象徴として描かれました。

この流れのサスケで、65巻火影を穢土転生して会話したシーンで出てきた「里とは何か」も非常に重要です。この世界では古来「繋がり」「信じる」という事象は、サスケのように、一族の中でしか発生しなかったものです。しかしそれを一族の外まで拡張したものが「里」であると初代火影千手柱間は言っています。里があることで一族の外の同世代にも「繋がり」が発生しますし、違う一族の子息を信じて思いを託すことが出来ます。
(「里」の元祖である千手柱間は、里を優先してうちはマダラを倒しました。つまり、個人的な繋がりと里全体としての繋がりを天秤にかけ、最終的に里の繋がりを優先しています。)

しかしながら、「繋がり」は闇の原因でもあります。例えばサスケは一族の死と兄の脱走(= 繋がりがなくなった状態)が原因で歪んだ性格になってしまいました。繋がりが消えることが心の引き金になっている登場人物は多く、サスケにとってイタチが・オビトにとってリンが・長門にとって弥彦がそうでしたし、一時はツナデも弟と恋人がそうでしたし、万華鏡写輪眼は全てこのケースです。
これを受けて、ナルトはつながりの消失をを耐え忍ぶから「忍者」であると言っています。これは64巻でネジが死んだ際です。

繋がりの喪失はただ単に耐え忍ぶだけではなく、例えば66巻でカカシ先生は「心の穴は他の皆が埋めてくれる」と言っています。68巻でナルトも同様のことを言い、遂にオビトを倒します。我愛羅・五代目火影ツナデ・長門(ペイン)は、繋がりが一度なくなっていましたがナルトが対話(バトル)の末に解決しました。その3人は新たな繋がりが出来たか、もしくはナルトを「信じる」「思いを託す」ことによって正気に戻っています。カブトやオビトも、詳細は省きますが共に69巻で「繋がり」と「自分を信じる」ことで正気を取り戻します。

逆に言うとこの「繋がり」がないから無限月読の世界はよくないとナルトは考えていました。無限月読はオビト・マダラが目指した全人類にかける幻術の世界ですが、作中では最終的な「繋がり」に関する究極的な議論の表象になっています。
65巻の回想シーンで、うちはマダラは千手柱間に対して自分には「つながりなどない」と言っています。マダラは、繋がりがあるから愛情が生まれ、愛情があるから憎しみが生まれ、そこから争いが生まれると考えました。そこでその根源を断つという発想に至ります。これが無限月読です。
結果、忍連合軍の皆さんは自分たちの繋がりがあったため無限月読を否定し、阻止しました。

大筒木カグヤ・うちはマダラ・大蛇丸・うちはサスケや様々な人物がそうですが、この作品では優秀ですが独りでなんでもしようとする人間が ``ワルモノ’’ として描かれます。優秀かどうかは関係ないのですが、ワルモノである所以は繋がりを否定するからです。
72巻最終決戦のナルトvsサスケは、サスケの提案により始まりました。サスケは、人間には繋がりがあるからどうしてもその消失から憎しみが発生すると考えています。ではその全ての憎しみの対象をサスケに集中させるという方法を考えました。そうすれば他の誰も繋がりから傷つかなくて良いからです。しかしナルトは、サスケ一人を犠牲に解決することを善しとしませんでした。憎しみは他のみんながいるから解決してくれると信じていました。サスケは敗北に際し:

どんな奴でも当然… そんなオレとの繋がりを一度は皆切ろうとした…

と言います。ですがナルト(およびイタチ)が言うように、一人一人では限界があるので、皆が繋がりを持ち信じることが重要であると認めます。そのため最終戦は、作品全体のテーマをにふさわしい最後であったと感じました。

では、作中で目立った戦いに於いて、「信じる」と「繋がり」の面からどのように解釈できるか見ていきます。ここは議論を厳密に彫るための部分なので、ここまでの2章で納得頂けた方は次に進んでしまって大丈夫です。

1. 中忍試験 : ネジ vs ナルト

12巻、中忍試験本戦で日向ネジと主人公ナルトが対決するシーンは、才能や諦めない心について捉えられがちな一戦です。しかし今回の文脈で見ると、ネジは繋がりがなくなっていた人物として描かれています。ネジは分家の人間で10年くらい前に親も失くしていました。特に「実の親は宗家のために犠牲になり、これが分家の定め」と思い込んでおり、ネジは繋がりの無い忍としてだいぶ性格が歪んでいました。
しかしナルトとの対戦後、宗家のボス:ヒアシがネジのもとを訪れ、ネジの親の死の真実・真意を伝えます。その結果ネジは人が変わったように精神が落ち着きます。日向一家やヒアシは、ネジが子供だからと思って真実を10年伏せていました。それが誤りで、ちゃんと ``信じて’’ 真実を託しておくべきだったと悔やむ形になりました。次の世代を信じることを怠った結果、繋がりがなくなった例として登場していたと考えられます。ちなみにこの会話でヒアシがネジに投げた最後の言葉が「信じてくれ」です。

2. ツナデ

18-19巻、五代目火影を要請するため、自来也とナルトの2名で行方不明のツナデを勧誘しに行き、大蛇丸と対戦することになる場面です。ツナデは千住一族のエリートでしたが、恋人と弟といった繋がりが亡くなったことで人生のやる気を喪失していました。
しかしそんなツナデの前に悪の中枢:大蛇丸が現れ、「恋人と弟を蘇生してあげるから協力しなさい」といった要請をします。繋がりの誘惑は強力で、ツナデの心が大蛇丸に傾きかけますが、ここでナルトが現れます。ナルトは「夢は火影になること」と豪語しており、偶然にもツナデの恋人・弟と同じ夢を持っていました。これを見てツナデは、死者の過去の繋がりに執着するのではなく、次の世代を信じて託すことを悟ります。結果ツナデはナルトを信じるようになり、火影就任を受諾しました。

3. サスケ奪還

21-26巻、里を抜けたサスケを追って木の葉はシカマル・チョウジ・ネジ・キバ・ナルトの5名で追いかけるシーンです。ここは明解な場面です。サスケは里との繋がりを捨て、力を求めて大蛇丸のところを目指しました(イタチとの繋がりを優先したという見方も出来ます)。この護衛に「音の四人衆」がつき、木の葉の追手5人と順番に戦います。この戦い方に「信じる」「託す」が出ており、敵一人のしんがりに対し木の葉は一人ずつ切り離して前進しました。26巻で最終的にこの計画が失敗したところで責任者だったシカマルは病院で:

今回オレが小隊長として出来たことといやぁ…みんなを信じることだけだった

と述べています。任務失敗したシカマルは忍を引退することすら匂わせますが、これに対して父と火影が次回に向けて激励し、シカマルは前進します。NARUTOではよくできた上の世代の人物は、下の世代の者に託す信念について非常に強いものがあります。

4. チヨバア vs サソリ

30巻、風影(我愛羅)奪還の場面のうち、傀儡のサソリと戦う方です。傀儡使いの祖母と孫が激突する悲劇でした。筆者が連載で読んだ頃は「サクラの見せ場づくりでしょ」という見方をしていましたが、ここもテーマに沿った戦いです。
孫のサソリは両親を(木の葉の白い牙によって)殺害され、繋がりを失い人格がゆがみ、抜け忍になります。それから20年。祖母のチヨバアは現役を引退していましたが、孫のサソリが風影を誘拐したと聴いて前線復帰を決意します。結果的に、チヨバアはサソリを倒すものの風影は既に死亡していました。そこでチヨバアは血縁関係のない風影(我愛羅)を信じて、自らの命を引き換えに風影を蘇生する術を使いこの世を去ります。チヨバアはそれまで繋がりのない隠居をしていましたが、外の世界に触れて次の世代に託す方へ信条の変化がありました。

5. イタチ

イタチ vs サスケ の兄弟対決は一度43巻で描かれます。その後62巻で穢土転生したイタチとサスケで共闘しますが、連載時に読んだ時はこの意義が余り分かりませんでした。コミックスでよく読んでみると、穢土転生したイタチは重要なメッセージを伝えに来ていました。上述しましたが、まずナルトには「全部一人でやろうとするとマダラみたいになってしまうよ」という「信じる」ことに関するアドバイスを届けに来ます。その後、カブトを倒した後サスケにはこう話します:

オレが初めからお前とちゃんと向き合い同じ目線に立って真実を語り合っていれば

という後悔です。イタチはサスケとの「繋がり」については43巻で一度オビトの口から語られていましたが、43巻時点で分かるのはイタチはサスケに真実を隠していたということです。イタチはサスケを子供扱いしており、「信じる」ことが出来ませんでした。イタチは一族と里の対立について自分だけで処理しようとした結果、一族を全滅させる手段を選びましたが、もしサスケにちゃんと相談していたら違う道もあったかもしれません。この辺の議論が出来て役目を果たしたところで、イタチが穢土転生を解術して穢土転生パートは終了します。

6. ペイン vs ナルト

ペイン vs ナルト は48巻で決着しますが、41巻の自来也との戦闘から始まると考えると長いパートです。しかも輪廻眼・仙術の初登場シーンであり、こちらに目が行きがちです。しかしここは「信じる」ことに関して作中の象徴的な部分と言っても過言ではありません。
事は NARUTO 開始前に遡りますが、自来也は先の大戦で「伝説の三忍」という呼称を得ます。その帰路に孤児3人組に出会い、彼らがかつて自来也が受けた予言の中に登場する子であると信じて育成します。自来也は特にその弟子の一人である長門に、平和について議論します。二人は平和の実現方法は分かりませんでしたが、長門は平和の実現に最も重要なことは:

信じる力です

と述べます。自来也も長門を「信じとる」と伝えます。時が経って弟子たちは独り立ちし、自来也と別れて自分たちだけで生きていましたが、争いごとに巻き込まれて弥彦が死んでしまいました。長門にとっては重大な繋がりを失ったことになります。長門は48巻「オレの出したかつての答えはクソ以下だと気付いた」と絶望します。その結果、長門はペインへと名前を変え、平和の実現には全人類が「繋がり」を失う痛みを知る必要があるという結論に至ります。
NARUTO 作中には、「信じる」や「繋がり」に対立する意見を言う人が沢山登場します。ペインもその一人です。幸せな繋がりがあっても戦争がある限り、死によって「繋がり」は断たれてしまい、痛みを感じてしまいます。ペイン(長門)はその痛みに耐えきれなかったため、師である自来也とペイン自身を信じられなくなったと述べています。一方のナルトは、痛みを知っているのに自来也の「人が本当の意味で分かりあえる日が来ることを信じておる」という言葉を信じていました。そこでペインはナルトに対し「これからどれほどの痛みがお前を襲うことになっても」ナルトは変わらずにいられるのか?と問いかけます。ナルトは将来にも亘り、自来也の言葉を信じる決意を話します。これを表した言葉が、作中で頻出する:

まっすぐ自分の言葉は曲げない。それがオレの忍道だ

でした。これを聴いてペイン(長門)は、ナルトを信じて未来を託しました。


他にも例がありますが、作中で「信じる」「繋がり」を軸にキャラクターがどのように設定されており、話がどのように展開されているかは、このように捉えました。余談ですがネットではうちはマダラは「千手柱間大好きおじさん」と揶揄されることもありますが、これこそが作品の本質だったと感じます。マダラは弟や一族との繋がりを失って人格が歪み、信じることが出来なくなってしまいました。それでも結局は柱間との繋がりに支配されていました。

比較

NARUTO(1999-2014)は能力バトルマンガですので、『HUNTER X HUNTER』や『ジョジョの奇妙な冒険』と比較されることが多い漫画です。しかしこのテーマを基に考えると、以下の2作品に近いと考えています:

  • 『鬼滅の刃』(2016-2020)
  • 『キングダム』(2006-連載中)

鬼滅の刃は「想い」の継承が重視されていました。どんなに鬼が強かろうと、お館様は人の想いは消えないと語っていました。世代を超えて鬼殺隊は目的へ進み、主人公:炭治郎も炎柱や父など様々な先輩の想いを継いで戦いました。他にも呼吸の継承や「記憶の遺伝」といった要素もありました。

一方のキングダムは、明確な単語では登場しませんが、「背負う」がテーマになっています。キーワードとしては「天下の大将軍とは何か」がずっと語られていますが、それとコントラストに刺客や武神が登場しています。ここは作中で最新58巻で李牧が言っていることに全て詰まっていると思うのですが、刺客や武神の力は個人で最強を目指す能力で、天下の大将軍とはそれとは逆に他者の思いを背負って前に進む能力でした。

時代的にはNARUTOが一番古いのですが、この鬼滅の刃の「想い」とキングダムの「背負う」が、NARUTOでは「信じる」と「繋がり」として融和しています。

以上

NARUTO は登場人物の立ち位置:「信じる」「繋がり」の文脈では味方・敵ともにキレイな配置になっています。編集やアシスタントの方とかなり対話して、矛盾しないように配置したのだなあと感じます。NARUTO は長いにもかかわらず一貫性のある作品でした。

最初からラストへのテーマを決めてらっしゃるジャンプ作者の方は珍しいと思います。そこでいつこの「繋がり」のテーマでラストまで行くと決定したのかですが、第2部をやり始める頃かなあと推測しています。象徴的な点として、サイという人物が ``第七班’’ に追加されました。ナルト・サクラ・カカシ先生の第7班に、サスケの替わりとしての補充キャラは他にも、根暗だったり意地悪だったり、変な血継限界を持っている人物でもよかったのですが、完全に感情も身内もないサイを選んだところにテーマを感じました。

一方、一度活躍したキバは出現頻度が下がり、逆にチヨバア・我愛羅・ペインなど「繋がり」に関わる人物が目立つようになります。ダンゾウ・雷影など独りよがりな(信じることをしない)人物はナルトと対立するように描かれます。彼らはいずれも第2部からガッツリ登場しているので、やはり第2部に以降する辺りでテーマを盤石に固めたのかと推測しています。

最後に、そんなに頻度高くやっていないのですが、今まで記した作品考察について幾つか以下に挙げます:

ご参考までに。

共同体感覚とゲームシーン ガリレオは何故有名なのか

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